1960年代の東南アジア ベトナム戦争

1970年代の東南アジア

 1970年代、東南アジアではベトナムの和平が成立。ベトナム戦争が波及してカンボジア内戦が勃発した。

 今回は、ベトナム戦争の始まりとその過程を見ていきます。

ベトナム戦争

反戦運動とアメリカ軍の撤兵

 68年になると、世界各地で反戦運動が活発化した。これにより、フランスではド=ゴール大統領が退陣した。ちなみに、ジョン=レノンがイマジンを発表したのが3年後の71年である。

 アメリカの民主党ジョンソン大統領は、この反戦運動を受けて北爆を停止した。この年の大統領選挙では、ベトナム撤兵を公約に挙げた共和党のニクソン大統領が勝利。ベトナムは和平へ向っていく。

ASEAN

 東南アジア諸国は、ベトナム戦争によって中国の支援を受けた共産党の台頭を脅威に感じていた。

 67年3月、インドネシアでクーデター。反中国のスハルト政権が成立した。

 同じ月、東南アジア諸国はASEANを結成した。参加国は、以下の通りである。

  • インドネシア(スハルト政権)
  • フィリピン(アメリカから独立した親米国家)
  • タイ(第二次世界大戦以前からの独立国)
  • マレーシアとシンガボール(60年代にイギリスから独立)

北爆

 63年11月、ケネディ大統領が暗殺。副大統領のジョンソン氏が大統領に就任した。

 64年8月、トンキン湾でアメリカ海軍が北ベトナムの行来攻撃を受ける。(トンキン湾事件)これをうけて、アメリカ議会は北ベトナムへの宣戦布告を決議。

 65年、ジョンソン大統領は北爆を開始。

南ベトナムで親米政権崩壊

 60年大統領選に勝利した民主党のケネディ大統領は、積極的に南ベトナム政府を軍事支援した。

 63年11月、軍部によるクーデター。アメリカ軍はこれを黙認した。アメリカは政権交代で反政府組織(南ベトナム解放戦線)との和平の道を探った。しかし、内戦は収まらなかった。

南ベトナム解放戦線

 60年、南ベトナムの社会主義勢力である南ベトナム解放戦線が挙兵した。これを支援したのは、北ベトナムのホーチ=ミン政権である。南ベトナムの社会主義革命が、ベトナム戦争の始まりである。

ベトナム戦争以前のベトナム

 ベトナム戦争以前のベトナムはどのようになっていただろうか。

 ベトナムは、南北で2つの国家に分かれていた。ホーチ=ミンらベトナム共産党が統治する北ベトナムとアメリカの支援を受けている南ベトナムである。

 ベトナム戦争は、南ベトナムの内戦から始まる。

スハルト政権 in インドネシア

スハルト政権とは

 スハルト政権は、60年代から90年代まで続いたインドネシアの政権である。開発独裁政権の一つに掲げられている。

 スハルト氏は、軍人出身の政治家で、オランダ統治時代から軍人として活躍した。インドネシア独立戦争では、独立軍を指揮した。

外交)反共産主義

 スハルト政権は、67年3月に成立。スハルト政権の特徴は、共産主義への反対と親米である。2つの外交政策を展開した。

 1つ目は、ASEANの結成である。スカルノ政権期、ボルネオ島の問題でマレーシアと対立していた。スハルト政権では反マレーシア政策を改めた。67年8月、マレーシアなど反共産勢力の東南アジア諸国6か国でASEANを結成した。

 2つ目は、中国との国交断絶である。67年10月、中国と事実上の国交断絶状態になった。

経済)開発独裁

 スハルト政権は、外国資本を積極的に受け入れて経済成長を推し進めた。しかし、この方法は、西洋化に反対す人々や共産主義者の反発を受けた。スハルト大統領は、容赦なく弾圧した。

アチェ州

 スマトラ島北部の自治州でインドネシアからの独立を希望していた。このエリアは石油などの天然資源に恵まれていた。

 スカルノ政権は、59年にアチェ州を設置し、大幅な自治権を認めた。

 スハルト政権が成立すると、外国資本の企業が石油などの天然資源を求めて進出。ここでの税収は、中央政府に吸い上げられた。さらに、スハルト政権は外国企業に配慮して、アチェ州へのイスラム法の適用を除外した。これにより、住民の独立への意識は高まっていった。

共産党勢力のクーデター

 では、どのようにしてスハルト氏は大統領になったのであろうか。

 65年9月、共産党系の軍部がクーデターを実施。これはスハルト氏らによって、鎮圧された。(9・30事件)。

 スハルトは、この事件を利用して共産党員を大量に処刑した。

スカルノ大統領は、内閣改造で政権を維持しようとした。しかし、スカルノ糾弾の声が高まった。67年3月、スカルノ大統領が退陣。スハルト体制が確立された。

(前政権)スカルノ政権

 インドネシアの独立の父はスカルノ大統領である。スカルノ大統領は、59年に、45年憲法を復活。大統領の権限を強化。63年に終身大統領に就任した。

 共産党と軍部(スハルト将軍など)の対立を巧みに伝って、大統領の権限を強化していった。議会では、3つの勢力があった。民族主義の国民党。イスラム政党と共産党である。この体制はナサコム体制と呼ばれた。

 外交面では、61年に中国インドネシア友好条約を締結。63年9月にマレーシアが成立すると、ボルネオ島をめぐり対立。65年1月、マレーシアが非常任理事国に選出されると、インドネシアは一時離脱した。

 同年9月に共産党がクーデターに失敗。翌66年1月に国際連合に復帰した。

 この体制を危惧したのは、資本家とアメリカである。彼らは運部のスハルト氏を担ぎ上げた。

マレーシア

マレーシアとは

 マレーシアは、東南アジアの諸島部にある国である。マレー半島とスマトラ島、その他の島で構成される。

 マレー半島とスマトラ島の間には、インド洋と太平洋を結ぶ海上交通の要所であるマラッカ海峡がある。

 マレーシアは古代からの海上交通の要所であったため多くの民族が訪れていた。そのため、多くの民族が成果する多民族国家である。主要民族は3民族で、先住民であるマレー族と中国からの移民とインドから移民である。

 諸島部の主要な宗教はイスラム教である。マレーシアもイスラム教を国教にしている。中国系移民は仏教を、インド系移民はヒンドゥー教を信仰する人も多い。

イギリス軍の撤兵

 マレーシアは、第二次世界大戦以前、イギリスの植民地であった。

 68年、ベトナム戦争を受けて国際的な反戦運動が展開された。これを受けて、イギリスの労働党のウィルソン首相はアジアからのイギリス軍の撤兵を発表。シンガポールのイギリス軍も撤兵した。

ASEANとインドネシア

 インドネシアとマレーシアは、60年代前半、ボルネオ島北部の領土問題で対立していた。

 65年9月、インドネシア共産党がクーデターに失敗。これにより、インドネシアは親米色が強くなった。

 諸島部には、インドネシア、シンガポールとマレーシアの反共主義政権が成立した。これに、親米国家のフィリピンとタイが加わり、67年ASEANを結成。北ベトナムとの対立姿勢を明確にした。

シンガポール独立承認

 シンガボールは、マレー半島の先端にある島国である。シンガポールはマレーシア最大の貿易都市である。そのため、中国系移民の商人(華僑)が多く生活していた。そのトップも、中華系移民のリー=クアンユー氏であった。 

 50年代後半、シンガポールは2つの勢力が対立していた。リー=クアンユー氏らの資本家グループと労働者などの社会主義勢力である。

 63年9月にマレーシア連邦が成立。リー=クアンユー氏はマレーシア連邦に参加して、社会主義勢力の弾圧を行おうとした。シンガポールもマレーシア連邦の1つの州になった。

 しかし、マレーシアはマレー人(先住民)優遇政策をとった。これに、リー=クアンユー氏ら中華系移民が反発。

 65年8月、リー=クアンユー氏らは、シンガポールを独立させた。名誉職の大統領にマレー人をおいて、リー=クアンユー氏が首相として実権を握った。

ボルネオ島争奪戦 vsインドネシア

 諸島部の大国は、インドネシアとマレーシアである。この2つの国はボルネオ島をめぐり、60年代から対立を始めた。

 そのきっかけは、63年9月のマレーシア連邦の成立であった。この時、ボルネオ島北部はブルネイを除いてマレー連邦に合流した。これに反発したのがインドネシアのスカルノ大統領である。

 65年1月、マレーシア連邦が国際連合の非常任理事国に選出。インドネシアはこれに反発し、国際連合を脱退した。

マレーシアの成立

 63年9月、旧イギリス植民地がマレー連邦として独立した。首都はマレー半島西部(マラッカ海峡側)のクアラルンプールに置かれた。

 このマレーシアには、マレー半島やスマトラ島東部(マラッカ海峡側)、ボルネオ島北部が含まれていた。

マルコス政権(フィリピン)

 フィリピンは、東南アジア諸島部の北東部にある国である。太平洋と南シナ海の間にある島国である。

 65年、フィリピンではマルコス政権が成立。アメリカなどの外国資本を積極的に受け入れて経済成長を進めた。開発独裁を吸進めた政治家の一人である。

ラオス内戦

 ラオスは、東南アジアの大陸部にある国で東側に位置する。ベトナムの西(内陸部)で、カンボジアの北に位置する。

 54年のジュネーブ休戦協定でラオスは、フランスから独立した。アメリカの支援で王政が成立した。

 ラオス北部では、反政府組織ラオス愛国戦線が反米を掲げていた。

 62年には、王党派と反政府組織の内戦に入っていく。

 65年、アメリカが北爆を開始すると、反政府組織ラオス愛国戦線は、南ベトナムの反政府組織を支援した。これをうけて、アメリカは71年、ラオスへ侵攻する。