1970年代の東南アジア ベトナム和平とカンボジア内戦

カンボジア内戦

80年代のカンボジア

 前回は、80年代前半のカンボジアを見ていきました。80年代前半は、親ベトナム政権が成立。これに対して、ポル=ポト派のなどの反ベトナム3派が連合政府を樹立。ASEANや国連がこれを支持した。

ベトナム vs 中国

 79年1月、カンボジアで親中のポル=ポト派政権が崩壊。中国は、イラン革命で苦しむアメリカのカーター首相(民主党)に接近。翌2月、アメリカの了承を得て、ベトナムへ侵攻した。中越戦争である。中国は人海戦術ですぐに制圧する予定であった。しかし、ベトナムは、ベトナム戦争で培ったゲリラ戦で中国軍を苦しめる。中国軍は、被害が大きくならないように1か月で撤兵した。

 中国は、なぜベトナムを攻めたのであろうか。当時の中国は鄧小平時代の初期である。毛沢東派(文化大革命派)の影響がまだ残っていた。

 さらに、中ソ対立で外交的にも不安が生じていた。

 そのため、国内対立から目を背けるために用いたのがベトナム侵攻であった。

ベトナムの介入

 ベトナム共産党は、75年にベトナム戦争に勝利。南北ベトナムを統一した。

 ポル=ポト政権が成立すると、ベトナムとカンボジアで国境紛争が頻発した。中国がこの仲介を図ろうとしたが失敗。

 77年12月、ベトナムは、カンボジアへ侵攻した。79年1月、首都プノンペンを制圧。親ベトナムのヘン=サムリン政権が成立。カンボジア人民共和国が成立した。

 一方、ポル=ポト派は、ジャングルに逃れ、ゲリラ活動を展開した。

ポル=ポト派政権

 75年、親米右派のロン=ノル政権が崩壊。ポル=ポト派はシハヌーク国王を幽閉。ポル=ポト派政権が成立した。

 ポル=ポト派は、共産党独裁政権を成立させた。ポル=ポト派は、反対勢力の粛清を実施した。

カンボジア内戦

 70年、クーデターで親米派のロン=ルノ政権が成立した。しかし、政権は安定せずに内戦状態になった。

 旧政府軍は、ポル=ポト派を味方につけた。ポル=ポト派は、当時、クメール=ルージュ(赤色のクメール人)と呼ばれていた。指導者のポル=ポト氏は、フランス留学経験を持つ。共産党員として武力闘争を展開していた。

 アメリカ共和党のニクソン大統領は、ベトナムで和平交渉を展開。一方で、ロン=ルノ政権支援のためにカンボジアへ軍を派兵した。73年にはカンボジアへの空爆を実施した。

 しかし、ベトナム戦争で国際世論は反戦に動いていた。そのため、新大統領のフォード氏はアメリカ議会の支持が得られず、撤兵をした。

 75年、ポル=ポト派を中心とした反政府軍は首都プノンペンを陥落。ロン=ノル政権は崩壊。ロン=ノル将軍は親米スハルト政権のインドネシアへ亡命した。

クーデター

 70年、アメリカの支援を受けて、ロン=ルノ将軍がクーデターを決行。当時、シハヌーク国王は中国にいた。そのため、中国か帰国できなくなった。

 クーデターは成功し、親米右派政権が成立した。

ベトナム戦争

 カンボジア内戦のきっかけは何だったのだろうか。それは60年代のベトナム戦争にある。70年はベトナム戦争の末期である。

 カンボジアのシハヌーク国王は、ベトナム戦争で反米の立場をとった。アメリカは、軍人のロン=ルノ将軍を擁立。クーデターによって親米政権が成立した。

シハヌーク元首

 シハヌーク国王は、インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)に乗じてフランスから独立を果たした。そのため、北ベトナムのホーチ=ミン政権とは友好関係にあった。

 ベトナム戦争では、南ベトナムの反政府組織ベトコンを支援した。

ベトナム和平

ASEANの変化

 ASEANは、現在では経済的なつながりを強める団体になっている。しかし、設立当初のASEANの目的は、経済面ではなく軍事面が重視された。

 もともと、ASEANは、反共親米の同盟であり、ベトナム戦争中に発足した。

 75年にベトナム戦争が終結すると、その性格は多く変化した。テーマが対ベトナム戦争から経済政策に移行した。

軍事同盟SEATOの解体

 SEATO(東南アジア条約機構)とは、米英仏と反共東南アジア諸国との軍事同盟である。ベトナム和平をうけて、77年に解体した。

ベトナム和平

 73年1月、ベトナムで和平会談。アメリカの撤兵が決定。73年3月、アメリカ軍がベトナムから撤兵。75年4月、北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴンを陥落。ベトナムは南北統一を果たし、ベトナム戦争は終結した。

ニクソン訪中

 60年代後半、アメリカはベトナム戦争反対運動が激化。68年には、反戦を訴えた共和党ニクソン氏が大統領選挙に勝利した。

 ニクソンが目を付けたのが、中ソ対立である。72年、ニクソン大統領は訪中。国際関係は、アメリカvsソ連・中国の構図からアメリカ・中国vsソ連の構図に変わった。

中ソ対立

 60年代後半、プラハの春と中ソ国境紛争が勃発。中ソの対立は激化した。70年代にはそれが加速した。

ラオス内戦の終結

 ラオスは、東南アジアの大陸部にある国で東側に位置する。ベトナムの西(内陸部)で、カンボジアの北に位置する。

 ラオス内戦は、60年代に始まった。王党派と反政府組織(ラオス愛国戦線)との戦いである。ラオス愛国戦線は、反米で左派の組織であった。

 反政府組織のラオス愛国戦線が南ベトナムの反政府組織の南ベトナム解放民族戦線を支援。71年、アメリカはラオスへ侵攻した。

 アメリカの侵攻はラオスの反米意識を高めた。これにより反政府組織のラオス愛国戦線が勢いずいた。74年、民族連合政府が成立。75年、王政が停止。ラオス自民共和国が成立する。

東ティモール併合(インドネシア)

 東ティモールは、東南アジアのティモール島の東部にある国である。植民地時代のティモール島は、西部がオランダ植民地、東部がポルトガル植民地に分かれていた。

 49年、インドネシアが独立。西ティモールはインドネシア領になったが、東ティモールはポルトガル植民地として残った。

 74年、ポルトガルで独裁政権が崩壊。民主化された。東ティモールは、3つの勢力に分かれる内戦となった。一つ目は、ポルトガル残留派である。2つ目はインドネシア併合派、3つ目は、社会主義勢力で完全独立派である。

 ポルトガル政府の総督は、国民投票によって決定しようとしたが内戦が激化。ポルトガル残留派のほとんどが難民としてポルトガル本国へ帰国した。

 ここで優勢になったのが、独立派の社会主義勢力である。反共産主義のインドネシアのスハルト政権はこれを危惧した。。スハルト政権は、東ティモールの共産化に反対。武力でインドネシアを併合した。

 国連安保理は、侵略行為とみなしてインドネシア軍の撤退を要求。しかし、アメリカ、日本、オーストラリアが併合を承認。社会主義勢力は完全い弾圧された。

 97年のアジア通貨危機でスハルト政権が崩壊。02年、住民投票で東ティモールは独立した。

アチェ州独立運動(インドネシア)

 アチェ州は、インドネシアの自治州で、スマトラ島北部にある州。石油などの天然資源に恵まれていた。

 59年、スカルノ政権によって自治がみとめられた。68年にスハルト政権が成立すると外国企業進出した。

 73年の石油危機が発生。石油価格が高騰した。あちゃ州に進出した企業は大きな利益を上げた。しかしの収益はインドネシア本国政府に流れ、アチェ自治州には影響を与えなかった。

 76年、自由アチェ運動(GAM)が結成。アチェ州の独立運動が本格化された。この独立運動は05年まで続いた。

マルコス政権が長期政権へ(フィリピン)

 フィリピンでは、アメリカの憲法を踏襲し、大統領の三選を禁止していた。

 マルコス大統領は、経済成長を背景に、憲法を改正。大統領の三選規定を撤廃した。