1980年代前半の東南アジア カンボジア内戦と開発独裁

カンボジア内戦

カンボジア内戦とは

 カンボジアは、大陸部の東部にある国である。内戦は、70年代から80年代まで続いた。この背景には、覇権国である米中ソがバックについていた。

 80年代前半は親ベトナムのヘン=サムリン政権の時代である。

シハヌークロン=ノルポル=ポトヘン=サムリン
~70年70年~75年~79年~
王党派軍部で右派共産党ベトナム共産党
アメリカ中国ソ連

カンボジアから撤兵

 ベトナムは、国際的に孤立した。さらに後ろ盾のソ連も、アフガニスタン侵攻でアメリカと中国が連携により、孤立していた。

 85年、ソ連では改革派のゴルバチョフ書記長が誕生。ソ連は改革(ペレストロイカ)が進む。同じように、ベトナムでも、改革派が政権の中枢に。市場経済の導入などの改革(ドイモイ)が始まる。86年、ベトナムはカンボジアから撤退した。

ASEAN、反ベトナム三派を支援

 79年に、ベトナムの支援でヘン=サムリン政権が成立。

 3つの反政府グループが団結した。国王のシハヌーク派、左派のポル=ポト派と穏健共和派のソン=サン派(旧ロン=ルノ派)の3つのグループである。

 82年2月、反ベトナム3派は北京で会談。82年7月、反ベトナム3派は、民主カンプチア連合政府を樹立。

 国際連合は、アメリカや中国の影響を受けて、ヘン=サムリン政権を否定。民主カンプチアを連合政府を正式な政府とした。83年2月、カンボジア、ラオスとベトナムで首脳会談。ベトナムの部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれにしたが分かった。84年7月、ASEANはベトナム軍のカンボジア駐留を非難した。85年1月、親ベトナム政権は民主カンプチア連合政府をほぼ壊滅した。

 しかし、考え方が違う3つの派閥は1枚岩になれなかった。そのため、内戦は長期化した。

ベトナムの介入

 78年、ベトナムはカンボジアに軍事介入。反政府ソ串木野ヘン=サムリン派を支援して、カンボジア人民共和国を建国した。

ブルネイの独立

 ブルネイは、インドネシア諸島部にある国である。ボルネオ島北部にある。ボルネオ島は、北側が南シナ海に面している。北部がマレーシアで、南部がインドネシアである。

 ブルネイは、イスラム教の王国でイギリス連邦に属している。天然資源に恵まれた豊かな国である。国王(スルタン)を中心とした立憲君主制の国である。国王の権限は強い。また、イスラム教国で、国立学校で共学はなく、禁酒法も存在する。

 天然資源に恵まれたブルネイ王国は、マレーシア独立後もイギリスの保護国とされた。75年、国際連合でブルネイの独立が決議。84年、ブルネイ王国が正式独立。国際連合とASEANに加盟した。

開発独裁

概要と背景

 東南アジアは、70年代から急速な経済成長を続けていた。その主たる要因は、日本からの生産拠点の移転である。賃金が上昇し多くの企業が、低賃金の東南アジアへ生産拠点を移していった。85年のプラザ合意で急速な円高が進むとこれは顕著になった。

フィリピンの民主化運動

 開発独裁国家は、80年代に入ると長期政権になっていた。経済成長で支持を集める一方で、ワイロなどの政治腐敗が進んでいた。これにより、東南アジア諸国で民主化運動が拡大した。

 フィリピンでも、政治腐敗を理由にマルコス政権の反対運動が高まった。83年、マルコス大統領の政敵、アキノ氏が暗殺された。これにより、民主化運動が激化。86年2月の大統領選挙で、アキノ夫人が当選。マルコス政権が崩壊した。