1990年代の東南アジア アジア通貨危機と開発独裁の終焉

アジア通貨危機

アジア通貨危機

 アジア通貨危機とは、自国通貨の暴落で、資金が海外へ流出。株や不動産が暴落し、大部分の東南アジア諸国は不況に入った。この不況は、アジアの開発独裁者を退陣させていった。その代表がインドネシアのスハルト大統領であった。

開発独裁とNIEs

 70年代から80年代にかけて、急速な経済成長が起きた。

 その要因は、70年代初頭のニクソンショックである。ニクソンショックで急速な円高が進んだ。そのため、多くの生産企業は人件費の安い東南アジアへ生産拠点を移した。これは85年のプラザ合意で急速に進んだ。そのため、東南アジアは、NIEs(新興工業地域)と呼ばれた。

 この急速な経済成長によって、時の政権は国民の支持を集め、長期政権を築いた。これらの政権を開発独裁という。

アジア通貨危機の背景

 アジア通貨危機の要因は2つある。1つ目は、日本のバブル崩壊である。日本ではバブルが崩壊。金融機関は多くの不良債権を抱え、貸し渋りや貸しはがしが起こった。東南アジアに流れた資本も日本へ還流した。

 2つ目は、中国・ベトナムなどの社会主義国の市場開放である。これらの地域はまだ賃金が高くないため、多くの企業がNIEsから旧社会主義国へ生産拠点を移した。

タイ VS ヘッジファンド

 東南アジア諸国は、ドルとの固定相場制を維持していた。そのため、東南アジアの中央銀行(通貨発行を行う銀行)は、自国通貨が売られるとがドルなどの外国通貨を売り渡す義務を負った。一方で、このドルとの固定相場制によって、海外投資家は安心して東南アジアに投資を行うことができた。

 ヘッジファンドとは、売りと買いを併用することで株式相場とは関係なく利益を上げ続けるファンド(投資信託)である。

 ヘッジファンドのトップであるジョージソロスは、通貨取引に秀で投資家である。彼が目を付けたのがタイのバーツであった。ソロスはタイバーツを売り続けた。タイの中央銀行はこれに対抗し買い続けた。

 しかし、タイの中央銀行はこれに耐え切れず、97年7月、タイバーツの切り下げ(タイの為替レートを下げること)を行った。これにより、アジアの通貨が軒並み下落した。

 海外投資家は東南アジアから資金を引き揚げ、東南アジア全体で金融危機が発生した。これら一連の騒動をアジア通貨危機という。

IMFの介入と開発独裁の終焉

 タイは、IMFを受け入れ通貨危機を乗り切った。しかし、急速な不良債権処理を行ったため、深刻な不況になった。この不況下で支持を集めたのがタクシン首相である。

 マレーシアは、IMFの介入を拒否。独自の金融規制を行うことで乗り切った。

インドネシア スハルト政権の崩壊

 インドネシアのスハルト大統領も、IMFの融資を受けることにした。しかし、タイの現状をみて、暴動が発生。スハルト政権が崩壊。民主化が進んだ。

新政権は、東ティモールの独立を容認、02年に正式に独立した。

ミャンマー アウンサンスーチー氏の解放

 ミャンマーは、軍事独裁政権の下にあった。アウンサンスーチー氏はNLD(国民民主連盟)を結成し、ミャンマーの民主化を進めた。そのため、88年に自宅軟禁に置かれた。

 91年、アウンサンスーチー氏は、ノーベル平和賞を受賞。しかし、自宅軟禁で出国ができないため授賞式に参加することはできなかった。

 95年、国際世論の非難を受けて、軍事政権はアウンサンスーチー氏の自宅軟禁を解除した。

ナタデココ ブーム

 フィリピンは、東南アジアの島国である。このフィリピン発祥のデザートでナタデココがある。ナタデココはココナッツの果汁を発酵させて固めた食品でコリコリをした独特な食感がある。

 93年、日本はバブル末期。日本でナタデココブームが起こった。

カンボジア 内戦の終結

 カンボジアは、東南アジアの大陸部にある国で東側に位置する。

 このカンボジアでは、70年代から内戦が続いていた。91年、パリでカンボジア和平協定が成立。国連カンボジア暫定統治機構が成立した。日本もPKO法に基づいて自衛隊を派遣した。自衛隊の最初の海外派兵である。

 93年の選挙で、シハヌーク派が第1党になり、カンボジア王国として再出発した。

 カンボジア和平の後ろにはソ連の崩壊があった。89年、冷戦が終結。01年ソ連は崩壊した。また、中国は、89年の天安門事件で国際的に孤立していた。ベトナムは、ドイモイで外交政策を大きく転換していた。

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