12世紀の中国 宋王朝 満州人(女真人)の侵入

前回の復習 13世紀の中国

 13世紀は、モンゴルの時代である。13世紀前半に金王朝が滅亡。後半に宋王朝(南宋)が滅亡。モンゴル人が中国を支配する時代になった。

12世紀の国際情勢

 12世紀(1101年―1200年)の日本は、平安時代末期。院政の時代である。保元の乱・平治の乱で武家が台頭。平清盛の平氏政権を経て、85年、源頼朝が鎌倉幕府を開く。

 ヨーロッパでは、ローマ教皇の絶頂期である。十字軍遠征が展開された。12世紀末に即位した教皇インノケンティウス3世は、ドイツ(神聖ローマ帝国)、フランス、イギリス(イングランド)の連合軍になった第3回十字軍を編成した。

宋王朝

宋王朝

 宋王朝は、10世紀に成立した中華王朝である。文治主義をとり、皇帝専制政治を展開した。都は、中国最大の商業都市である開封(かいほう)に置かれた。

 12世紀に入ると、官僚の派閥争いや、宦官の台頭で政治は停滞していた。

靖康の変

 15年、混乱する宋王朝に朗報が到達した。満州人(女真族)が北方の軍事大国である遼に勝利したというニュースである。

 宋王朝は、すぐに満州人と同盟を締結。その時の条件は、宋王朝と遼が結んでいた澶淵の盟を金王朝が引き継ぐものであった。

 25年、遼は滅亡。しかし、宋王朝は澶淵の盟を反故にした。金王朝と宋王朝は戦争状態になった。ただ、軍事力は圧倒的に差があった。

 金王朝は、宋王朝に対し、皇帝を人質に出すことと天文学的な賠償金を出すという講和条件を出した。宋王朝は、それは飲めなかった。

 27年、金王朝軍は、開封を占領。開封の財宝を持ち帰り、開封の人々を捕虜として、金へ連れ帰った。これが靖康の変である。

中国の英雄 岳飛

 靖難の役の際に、皇帝の弟は開封を離れていて難を逃れた。枯れたは、江南の臨安(杭州)で臨時政府を樹立した。南宋の始まりである。

 金王朝は、宋王朝を滅亡させるつもりはなく澶淵の盟のように定期的な貢物が得られればよいと考えていた。

 そこで、捕虜であった秦檜を南宋へ帰国させた。南宋は、主戦派の岳飛と和平派の秦檜の対立が起きた。最終的には、主戦派の岳飛を投獄。和平に舵を切った。

 42年、金との講和が成立した。紹興の和議である。

  • 金と南宋の国境を淮河とした。
  • 南宋は、毎年銀と絹を金王朝に貢ぐ

南宋

 南宋は、江南の開発に努めた。江南に広大な水田を開発。同じ頃、ベトナムから占城稲(チャンパー米)が伝わった。これにより、コメの生産量が劇的に増加。「蘇湖熟すれば天下足る」と言われた。余談だが、この占城稲は13世紀に日本に伝わる。

 景徳鎮(陶磁器)などの工業製品の生産も加速した。東南アジア経由でムスリム商人を通じて、西アジアや東アフリカ・地中海諸国との交易を行われた。

 平清盛も日宋貿易を展開していた。

金王朝と北方騎馬民族

満州人とは、

 満州人(女真族)とは、中国東北部のツングース系の民族である。7世紀末に渤海(ぼっかい)を建国した。10世紀にモンゴル系の遼(りょう)の支配下に入った。

 11世紀初頭に、日本への遠征を実施した。(刀伊の入寇)

 その後、金王朝を建国。13世紀にモンゴル民族によって滅ぼされる。再び、モンゴルの支配下に入る。

 16世紀初頭にモンゴルから独立。清王朝の前身である後金を建国する。

遼に勝利

 12世紀に入ると、完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アグダ)が満州人を統一。

 15年、モンゴル系の遼に勝利。

 25年、モンゴル系の遼を滅ぼす。

開封包囲

 遼王朝を滅亡すると、金王朝と宋王朝で国交交渉が行われるが、度々決裂した。

 26年、金王朝は第1回開封包囲を実施。一度講和するも再び決裂。翌27年再び開封包囲。皇帝を含む開封にいた人々を捕虜として金へ連行した。

紹興の和

 金王朝は、捕虜から秦檜を南宋に派遣。

 42年、南宋と講和。これを紹興の和議という。この講和条件は、以下の通りである。

  • 国境を淮河に定める。
  • 宋王朝(南宋)は、銀と絹を治めることになった。

金王朝

 金王朝は、遊牧民族(満州人、モンゴル人)と農耕民族(漢民族)で異なる統治体制を取った。遊牧民族に対しては、猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)の統治体制をとり、農耕民族に対しては、従来の中華王朝と同じ州県制をとった。これが二重統治体制といい、遼と同じ統治体制を採用した。

 文字は、漢字ではなく女真文字を利用。ただ、科挙は継続。漢民族からも官僚を採用した。

 53年、都を燕州の燕京(現在の北京)に都を移した。

経済)紙幣の利用

蘇湖熟すれば天下足る

 南宋が成立すると、宋王朝は江南の新田開発を進める。この新田開発に加えて、ベトナム(チャンパー)から占城稲が伝わり、二期作が始まった。これにより、米の収穫量が劇的に増加した。

 「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるようになった。この時の農業の中心地は、長江下流域であった。15世紀(明王朝期)になると、中心地は、長江中流域になり、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになる。

紙幣の登場(会子)

 貨幣経済が発展。銅銭の他に、金や銀の地金も使われるようなった。さらに、貨幣の代わりに交子・会子とよばれる紙幣(手形も流通した。

中国の王朝

遼王朝

 金王朝にほろぼされた遼王朝はどのような王朝であったのであろうか。

 遼王朝とは、東モンゴルの契丹(キタイ)族の王朝である。10世紀に建国し、モンゴルを統一するとともに、女真族の渤海を滅ぼした。五代十国時代の戦乱期に燕雲十六州(現在の北京周辺)を獲得した。

西夏

 西夏は、11世紀に遼王朝から独立したチベット系タングートの国。13世紀にチンギスハーンによって滅ぼされる。

 漢字をベースにした独自の文字である西夏文字を使用した。

タイトルとURLをコピーしました