16世紀前半の中国 明王朝 北虜南倭で衰退

前回の復習 16世紀後半の中国

 16世紀後半の中国は、明王朝の末期。財政難で滅亡寸前であったが、張居正の改革で財政を持ち直す。

 しかし、万歴帝の親政が始まると、宮廷の支出が増大。中では、役人の派閥争いが起き、外部では、豊臣秀吉の朝鮮出兵へ援軍も送った。

16世紀前半の国際情勢

 16世紀は、大航海時代である。日本は室町幕府末期。応仁の乱の影響で幕府の権威が衰退。戦国時代に入っていった。

 ヨーロッパでは、ルターの「95箇条の論題」を発表。宗教改革が始まる。

北虜

モンゴル

 モンゴルは、しばしば中国へ侵攻していた。明王朝の時代もそれは続いていた。

 15世紀初頭は、永楽帝の朝貢貿易で収まっていた。しかし、朝貢貿易が縮小すると、モンゴルの侵攻は加速した。15世紀半ばには、皇帝が捕虜になる土木の変が起こっている。

アルタン=ハンの侵攻

 50年、モンゴル(北方騎馬民族)のアルタン=ハンが北京包囲を実施した。

 アルタン=ハンはモンゴルの国王である。20年代から明王朝への侵攻が始まった。42年には、黄河中流域の山西へ大規模に侵攻。20万人以上の死者をした。

 また、中央アジアでは、オイラトを討ち、チベットや青海を服従した。

 アルタン=ハンは、チベット仏教を信仰。

南倭

後期倭寇

 後期倭寇とは、15世紀後半から16世紀にかけて中国沿岸部にいた海賊の総称である。

 ただ、海賊と言っても実際は闇貿易が中心であった。その中心は、中国産生糸と日本銀(石見銀山)の交易が中心であった。ポルトガル商人もこの交易網を利用して中国や日本などの東アジア交易圏に参入した。種子島に鉄砲を伝えたのも後期倭寇である。

 前期倭寇によって、中国沿岸部の人々は日本人海賊を恐れてたい。そのため、後期倭寇では日本人海賊の格好をすることで恐怖感を与えた。そのため、中国人が中心であったが倭寇と呼ばれた。

海禁政策

 明王朝は、朝貢貿易のみが正式な交易である。

 しかし、16世紀に入ると中国国内で銀の需要が高まった。とくに、一条鞭法の導入で銀需要が加速。中国での銀価格が加速していった。

 67年、張居正によって、海禁政策が解除。後期倭寇(闇貿易)が公認された。

寧波の乱

 銀価格の高騰により、日本にとっての勘合貿易は、重要な利権になった。

 23年、寧波の乱が起こる。中国の主要貿易港である寧波(ニンポー)でおきた細川氏と大内氏の争いである。

 細川氏は室町幕府の有力大名で、京都や兵庫に拠点を置いた大名である。一方、大内氏は、中堅大名であるが、中国に近い博多に拠点を置いた大名である。

 ちなみに、寧波は、上海の南(長江の河口付近)にある国際貿易港である。日本との交易は、おもに寧波で行われた。

ポルトガルの進出

 17年、ポルトガル人が、広州に至る。ここから、ポルトガルとの交易が始まる。

 57年、明王朝は、ポルトガル人のマカオ居住権を認める。

一条鞭法の始まり

農村)抗租運動(貧富の格差)

 抗租運動とは、小作人が地主に対して小作料の減額を求める運動である。

 商業の発達で地主の収入は増大した。一方で、物価の高騰で小作人の生活は困窮していた。

一条鞭法とは

 一条鞭法とは、16世紀半ばから始まった中国の税制である。

 それまでの中国では、両税法で税金を取っていた。国から土地の所有権を認められた地主が、夏と秋に米で納税した。

 16世紀半ばから、その税金を米から銀に変わっていった。これが一条鞭法である。この制度は、18世紀に地丁銀制に変わるまで続いた。

銀の流入

 16世紀に入ると、中国に銀が流入するようになった。戦国時代の日本や新大陸を獲得したスペインから大量の銀が流入した。