16世紀後半の中国 明王朝 万歴帝と大航海時代

前回の復習 17世紀前半の中国

 17世紀前半の中国は、王朝交代の時代である。明王朝が滅亡し、中国最後の王朝である清王朝が成立した時代である。

 今回は、明王朝末期の万歴帝の時代を見ていきます。

16世紀後半の国際情勢

 16世紀後半の日本は、安土桃山時代。織田信長、豊臣秀吉の時代である。

 16世紀は大航海時代。スペイン・ポルトガルが新大陸(アメリカ)やアジア・アフリカに進出。「世界の一体化」が進んだ時代である。

 16世紀後半、スペイン国王フェリペ2世が、ポルトガル国王を兼任。

明王朝と外交

ポルトガル人とマカオ

 16世紀は、大航海時代である。16世紀前半にマザラン一行が世界一周を達成。この16世紀から、「世界の一体化」が始まる。

 57年、明王朝はポルトガル人にマカオの居住権を与える。

 67年、海禁政策を緩和

キリスト教(カトリック)

 52年、ザビエル没

 82年、マテオ=リッチがマカオに到着

政治 張居正の改革

張居正

 72年、万暦帝が即位。わずか10歳であったため、実際は側近が政治を行った。その側近が張居正(ちょうきょせい)である。

 当時の明王朝は、軍事費の増大に伴い、財政が逼迫していた。そのため、最初の課題は財政再建であった。

 役人(公務員)を削減し、支出を削減。検地(大規模な土地調査)を実施。税収を増やした。

 また、ポルトガルの来航をうけて、海禁政策を停止。民間貿易を自由化した。また、モンゴルとの交易も拡大した。

内閣大学士

 張居正の役職は、内閣大学士である。日本の内閣の語源は、これである。

 内閣大学士は、15世紀初頭の永楽帝の時代に設置。皇帝の諮問機関の役割を果たした。内閣大学士は、科挙の首席合格者で構成された。この制度は、清王朝にも引き継がれ、18世紀初頭に乾隆帝が軍機処が設置されるまで続いた。

一条鞭法

 81年、一条鞭法が全国で実施される。

 それまで、中国の税金は両税法が採用されていた。8世紀後半(唐王朝の後期)から始まった。システムで、地主から夏と秋の2回米で税金を収めた。

 しかし、16世紀後半になると、地主が不明になることが多くなっていた。そこで、張居正は、大規模な土地調査を実施した。これが検地(けんち)である。

 15世紀から、一部の地域で米による納付から、持ち運びやす銀での納付に切替えられた。16世紀後半になると日本や新大陸から大量な銀が流入。海禁政策の緩和でそれが加速した。

 そこで、あらゆる賦役や税金を銀納に一本化した。これが一条鞭法である。

 この税金形式は、18世紀初頭の地丁銀制に変わるまで続いた。

明王朝の衰退

万歴帝の堕落

 82年、張居正が死去。ここから、万暦帝の堕落が始まる。

 張居正の改革により、財政に余裕が出てきた。さらに、改革の影響で倹約疲れも出ていた。これが万暦帝の堕落を促進した。

党争)東林派と非東林派

豊臣秀吉の朝鮮出兵

文化

景徳鎮

『西遊記』