前回の復習 18世紀前半の中国
18世紀は、清王朝の時代である。康熙帝、雍正帝、康熙帝の全盛期の時代である。
17世紀後半の国際情勢
17世紀後半は、絶対王政の確立期であった。主な君主には、以下の人たちがいる。
- 日本(江戸幕府) 犬将軍の徳川綱吉
- インド(ムガル帝国)アウラングゼーブ帝
- フランス(ブルボン朝)太陽王ルイ14世
康煕帝の中華統一
前皇帝順治帝
順治帝は、43年にわずか6歳で即位。呉三桂ら元明王朝の軍人のサポートを受けて、北京に入城した。
順治帝は、科挙などの明王朝の政策を引きついだ。また、中国南部を呉三桂ら、清王朝に味方した漢人の有力武将に統治を任せた。
61年、康熙帝が即位した。
鄭成功、台湾占領
鄭氏は、福建省(台湾の対岸)を拠点とした海賊集団であった。いわゆる後期倭寇(南倭)であった。
17世紀前半に台湾に進出した。
61年に康熙帝が即位すると、清王朝は鄭氏台湾に対して幸福感国を氏た。鄭成功はこれを拒否。清王朝と鄭氏台湾は戦争状態になった。
康熙帝は、清王朝は鄭氏台湾と戦争状態になると、鄭氏台湾に対して経済制裁を実施した。これが遷界令(せんかいれい)である。南シナ海の海上交易の禁止と沿岸部の住人の強制移住である。これが新たな反乱につながる。
遷界令は、日本にも影響があった。中国産生糸が日本に入らなくなった。
三藩の乱と中華統一
61年に遷界令が出されると、中国南部の経済に甚大な影響を与えた。
当時中国南部は、清王朝に味方した漢人武将に統治を委任した。彼らは、藩王(はんおう)と言われる。三人の有力な藩王は三藩といわれた。雲南の呉三桂、広東の尚可喜と福建の耿継茂の三人である。
73年、呉三桂らが清王朝への反乱を起こした。これが三藩の乱である。反清の鄭氏台湾もこれを支援した。
81年、康熙帝は三藩の乱を鎮圧。これにより、中国南部も直轄地になった。
鄭氏台湾占領
83年、鄭氏一族に勝利。清王朝は、台湾を併合した。
翌84年、鄭氏台湾への経済制裁(遷界令)を解除。南シナ海の交易が活性化した。
85年、上海、浙江省、福建省、広州の4港に海関を置き、貿易を統制した。
ネルチンスク条約
南の憂いがなくなると、北に関心を高めた。中央アジアの奪回を目指した。ターゲットは、モンゴル系のジュンガルである。
86年、ロシアとネルチンスク条約を締結。ロシアと清王朝の国境を定めた。これにより、北東部の憂いがなくなった。清王朝は、ジュンガル討伐に注力できるようになった。一方、ロシア帝国も、18世紀初頭の北方戦争に注力できるようになった。
経済
康熙帝時代の経済は、どのような状況であったのであろうか。
明朝末期の戦乱が終了。農業生産量は増加した。また。康熙帝は、減税と公共事業で経済成長を支えた。
三藩の乱を鎮圧。海禁政策を緩和した。これにより、貿易が盛んになった。とくに中国産生糸が売れ、大量な銀が日本から流入した。
外交
遷界令
17世紀半ば、鄭成功が台湾と福建省を拠点に清王朝に抵抗していた。その資金源は、日本(江戸幕府)との交易であった。
44年、康熙帝は、遷界令を発布。海上交易を禁止。沿岸部の住人を強制移住させた。鄭氏台湾への経済制裁であった。
この政策は、東南アジアや日本に大きな影響をあたえた。日本では、中国産生糸の輸入がストップ。生糸が高騰した。
83年に、鄭氏台湾が滅亡。翌84年、遷界令は廃止された。
海関と4港
康熙帝は、遷界令を廃止すると、主要な4つの貿易港に海関を設置。関税を徴収し、貿易を統制した。主な港は、以下の4項である。
- 江蘇の上海(しゃんはい)、浙江の寧波(にんぽー) 日本(長崎)との交易が中心であった。日本では、中国産生糸がよく売れた。
- 福建の廈門(あもい) 琉球や東南アジアとの交易が中心である。また、福建省の人々の多くが移住を実施、東南アジアで華僑(かきょう)と呼ばれるようにあった。
- 広州 ヨーロッパとの交易が中心であった。しかし、18世紀に入るとスペイン・ポルトガルは衰退期に入り、徐々に衰退していく。
東南アジアと日本
遷界令の影響を最も受けたのは、東南アジアである。当時、タイのアユタヤは、海上交易で栄えていた。その上顧客は、日本と中国であった。18世紀半ば、日本は鎖国政策を実施。中国も遷界令を発令。これにより、アユタヤは衰退した。代わりに台頭したのが、パタヴィア(ジャワ島、現在のインドネシア)に拠点をおいたオランダであった。
日本は、遷界令によって中国産生糸の輸入がストップ。これにより、生糸価格が高騰。都市部近郊の農村を中心に生糸の生産が盛んになった。84年に遷界令が廃止され、清王朝との交易が再開。江戸幕府は、88年唐人屋敷を建設し、貿易の統制を始めた。
沖縄県は、当時琉球王国があった。表向きは、清王朝への朝貢国であったが、実際は、日本の島津藩の支配を受けていた。琉球王国は、日本と清王朝の2国の支配を受けた。これを通じて、日本、清王朝と東南アジアの仲介交易で栄えた。
17世紀、東南アジアの中心都市は、タイのアユタヤであった。アユタヤは国際交易で栄えた。しかし、17世紀半ば、清王朝が遷界令や日本の鎖国政策で衰退した。代わりに台頭したのが、ジャワ島(インドネシア)のパタヴィアである。
イエズス会
日本や清王朝(中国)で布教活動を行っていたのは、イエズス会である。イエズス会は、東アジア古来の宗教を認めていた。先祖崇拝や儒教などである。
しかし、これが18世紀にヨーロッパで問題である。典礼問題である。
ロシア)ネルチンスク条約
17世後半のロシアは、ピョートル大帝の時代である。ピョートル大帝はシベリア探検を行っていた。そのため、17世紀後半になると、ロシア人が中国北部に訪れるようになった。
85年、ロシア帝国は、中国北部に城塞を建設しようとした。これにより、ロシア帝国と清王朝は戦争状態に入った。
89年、ロシアと清王朝は講和。ネルチンスク条約を締結、国境を確定した。