1810年代の中国 清王朝 イギリスの来航

前回の復習 1820年代の中国

 1820年代の中国。イギリスの三角貿易で、アヘン(麻薬)が中国に流入。これに伴い、銀が海外へ流出し始めた。

1810年代の国際情勢

 日本は、江戸時代後期。浮世絵などに代表される化政文化の時代である。

 ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が終結。ウィーン体制が構築された。

イギリス、アマースト来航

イギリスの貿易赤字

 キリスト教の普及と宣教師の居住の禁止

 イギリスでは、産業革命によって水質汚染が問題になった。そのため、水をそのまま飲むことができず、紅茶が流行した。(19世紀初頭にミネラルウォーターはまだ販売されていない)。そのため、中国産茶葉の需要が大幅に高まっていた。

アマースト来航

 16年、アマーストが来航。三跪九叩頭の礼を拒否したため、交渉に入ることができなかった。

 三跪九叩頭の礼とは、一度跪(ひざまず)いて、三回頭をたれるという動作を三回繰り返すことである。アマーストは、イギリス国王の代理人であるため、他国の国王に対して跪くことはできなかった。

 1793年にイギリス使節マカートニーが来航したときも、マカートニーは、三跪九叩頭の礼を拒否した。しかし、乾隆帝の厚意で交渉を行うことができた。

 では、イギリスに対して強気の外交を行ったのであろうか。理由は、2つある。1つ目は熟練の乾隆帝から、若き嘉慶帝に変わっていたことである。

 2つ目は、08年にイギリスがポルトガル人居住区のマカオを襲撃したためである。

 ちなみに、イギリスはこの時期、琉球王国や日本にもイギリス船を派遣。

イギリスの太平洋進出

 当時、イギリスは、東南アジア諸島部をめぐり、オランダと戦争中であった。オランダ領のジャワ島を占領していた。

 イギリスは、18世紀後半にクック船長を太平洋に派遣。オーストラリアとニュージーランドを植民地にした。

 18世紀末、ナポレオン戦争でオランダがナポレオンに征服される。このタイミングで、オランダの拠点であるジャワ島(東南アジア)を占領した。

 19世紀に入ると、産業革命で油の需要が拡大。イギリスは捕鯨のために北太平洋に向かった。

アジア航路の獲得

 15年のウィーン議定書では、アジアの植民地についても話し合われた。

 イギリスは、オランダの拠点であるジャワ島を返還した。

 代わりに、オランダは、インドへの航路になるスリランカ(セイロン島)と南アフリカをイギリスに割譲した。

北京で反乱

 13年、首都北京で天理教徒の乱が起こる。天理教は、白蓮教徒の残党によって成立した。