2世紀のエジプト 五賢帝時代とラティフンディア

3世紀のエジプト

 エジプトは、紀元前1世紀にローマの属州になっている。エジプトはローマ帝国の中で経済力の高い属州であった。それは、季節風貿易と穀倉地帯にある。前回は、季節風貿易をピックアップしたが、今回はローマ帝国時代の農業を見ていきます。

 後半では、ローマ帝国について見ていきます。3世紀のローマ帝国は、軍人皇帝時代の戦乱の時代であった。今回の2世紀は五賢帝の平和な時代を見ていきます。

穀倉地帯としてのエジプト

ローマ帝国にとってのエジプト

 ローマ帝国時代のエジプトは、重要な経済拠点であった。それには2つの理由がある。1つ目は、大量な小麦が取れた。この小麦がローマ市民の胃袋を支えた。2つ目が、季節風貿易である。

 季節風貿易については、3世紀編で描いているので、今回はローマ帝国期の農業経営について見ていきます。

 エジプトの1か月の税収は、別の属州の10倍以上といわれ、ローマの食料の3分の1はエジプト産で占められていた。

ラティフンディア

 ローマ帝国の農業形式は、ラティフンディアと呼ばれる奴隷制大規模農場経営であった。元老院議員や騎士階級は、属州での税金の中抜きで多大な富を得た。この富を使い、荒廃したの農地と戦争捕虜を買い、大規模農場経営を行った。農作業は奴隷に任せ、地主や悠々自適な生活を営んだ。

ラティフンディアからコロヌス制へ

 しかし、2世紀の五賢帝の時代になると大きな戦争がほとんどなくなった。そのため戦争捕虜の供給が止まった。そのため、使い捨てであった奴隷に家庭を持たせ、奴隷の子孫に農作業をさせ、永続的な農場経営を行おうとした。そのため、奴隷の生活レベルが飛躍的に向上した。かれらは、農奴(コロヌス)と呼ばれるようになった。

五賢帝の時代

五賢帝の時代の終焉

 2世紀の終わりになると、ゲルマン民族やパルティアの侵攻がきつくなり、五賢帝時代にも陰りが見えた。

 五賢帝最後の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスは、五賢帝時代の観衆を破り、実子を後継者に指名した。これにより、ローマ皇帝の市民の信を失い、

五賢帝時代とは?

 五賢帝の時代が終わると、皇帝の後継者をめぐり内紛が勃発。ローマの内紛に、辺境で戦う軍人たちは怒り心頭。軍人出身の皇帝の時代が始まる。これが軍人皇帝時代である。

 この時代になると、領土の拡張が亡くなり、奴隷の供給が止まる。ラティフンディアからコロヌス制へ移行した。

 また、3世紀に成立したササン朝は、ローマ皇帝を捕虜にするほどの大国になった。

 また、3世紀の政情不安からキリスト教信者は増大した。また、これを迫害できる皇帝もいなかった。

五賢帝の時代は、なぜ安定したのか?

 1世紀末から2世紀に五賢帝の時代に入る。この時期に最大領土を獲得。ローマ帝国の全盛期を迎える。

キリスト教の伝来

 キリストが復活されたとされるのが、1世紀前半である。1世紀半ばに入ると、ペテロやパウロがキリスト教の布教が開始された。

 エジプトにキリスト教が伝わったのもこの時代である。それまで、エジプトでは、太陽神ファラオを信仰していた。しかし、2世紀末には、太陽神信仰からキリスト教にシフトしていた。