7世紀のエジプト
7世紀最大の出来事は、イスラム教の成立である。それまで得エジプトは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下にあった。イスラム教の成立により、エジプトを含む中東はイスラム勢力によって統一された。
今回から、東ローマ帝国時代のエジプトを見ていきます。
東ローマ帝国とサーサーン朝
7世紀、東ローマ帝国は何故、エジプトを新興国のイスラム勢力に奪われたのであろうか。それは、サーサーン朝との戦いで非疲弊していたからである。
65年、ユスティアヌス帝が死去。ここから東ローマ帝国は衰退していく。イタリアのランゴバルド王国が独立したのもこのころである。
このころから、サーサーン朝イランとの戦いも激化した。6世紀前半、サーサーン朝と東ローマ帝国は和平条約が締結されていた。しかし、サーサーン朝が中央アジアのエフタルを破ると、軍隊を衰退した東ローマ帝国へ向けた。
6世紀末に、ホスロー2世が即位すると、東ローマ帝国はさらに劣勢になった。7世紀に入ると、シリア、パレスチナやエジプトがサーサーン朝に奪われた。
ユスティアヌス帝の地中海再統一
6世紀前半、東ローマ帝国は全盛期を迎える。時の皇帝はユスティアヌス帝である。
ゲルマン民族に奪われていた地中海沿岸を奪還し、地中海を統一した。この時、イタリアの東ゴード王国や北アフリカのヴァンダル王国は滅亡した。また、スペインの西ゴード王国もスペイン南部を一時占領されていた。
また、文化的にも大きな成果を出した。『ローマ法大全』を編纂。ハギア=ソフィア聖堂を建立した。
ユスティアヌス帝とコプト教会
ユスティアヌス帝の宗教政策
ユスティアヌス帝は、キリスト教(アタナシウス派)の強化を行った。5世紀のカルケドン公会議で異端とされた、シリアの単性論やエジプトのコプト教会の弾圧を行った。また、パレスチナではユダヤ教の弾圧を行った。ギリシャではアカメディアを閉鎖。多くの学者、サーサーン朝へ亡命した。
エジプトのキリスト教
エジプトやエチオピアでは、アタナシウス派ではなく単性論を信仰していた。5世紀半ばのカルケドン公会議で単性論が異端とされたもその信仰は続いた。
6世紀に入ると、単性論信仰はユスティアヌス帝の迫害をうけるようになった。
和解に失敗
53年、ユスティアヌス帝は、コプト教会と和解を図るために公会議を開催。しかし、この公会議は失敗。コプト教会とアタナシウス派の対立は続いた。
ヴァンダル王国の滅亡
ヴァンダル王国は、ゲルマン民族の国家のひとつで、チュニジアを中心に北アフリカを支配した王国である。
5世紀初頭、ゲルマン民族の大移動でスペインに侵入した。しかし、スペインでイタリアの西ゴード族に敗れ、北アフリカへのがれた。
かつてフェニキア人が作った都、カルタゴ(チュニジア)にはいり、ヴァンダル王国を建国した。5世紀後半にはローマを支配するほどの強国になった。
しかし、34年、東ローマ帝国のユスティアヌス帝によって滅亡した。