16世紀後半のエジプト
近代のエジプトは、オスマン帝国の支配下にあった。この時代のテーマはオスマン帝国との関係が重要になる。
16世紀後半、スレイマン1世の治世でエジプトの統治は安定した。この頃から多くの軍人がエジプトの役人になった。その結果エジプトで勢力争いが起こるようになる。
今回見る16世紀前半は、世界的には近代の始まりに当たる時期です。エジプトも、この時期に転換期をむかえる。ファーティマ朝が滅亡し、オスマン帝国の支配下に入った。
今回は、ファーティマ朝の滅亡とオスマン帝国の支配体制が確立する過程を見ていきます。
スレイマン1世の全盛期
スレイマン1世の活躍
オスマン帝国は、16世紀半ばに全盛期を迎える。時の皇帝(スルタン)はスレイマン1世である。
北方のバルカン半島では、ウィーン包囲を実施。ハンガリーとバルカン半島の統治を獲得した。
また、地中海ではプレヴェザの海戦でハプスブルグ家(スペイン・ドイツ)、ヴェネツィア、ローマ教皇連合軍に勝利した。
東方のイランは、サファヴィー朝の時代。スレイマン1世は、イランからアゼルバイジャン(カフカス地方)とイラク(メソポタミア)を獲得した。バグダードもこの時にオスマン帝国領となった。
また、ポルトガルからイエメンを獲得。これにより、ポルトガル船は西アジアの拠点を失った。
スレイマン1世の内政
スレイマン1世は、内政面でも活躍した。オスマン帝国の統治体制はおおむねこ時に確立した。これにより、オスマン帝国は20世紀まで続く帝国になった。
この時期に大規模な検地を行いシパーヒー(ティマール制の騎士)への影響力を高めた。これにより、皇帝(カリフ=スルタン)の専制は強化された。
文化もこの時期に華開く。トルコ=イスラム文化の全盛期である。トルコ=イスラム文化は、ティムール朝のチャガタイ=イスラム文化の影響を受けた。トルコ=イスラム文化の代表例は、スレイマン=モスクである。また、世界三大料理の一つトルコ料理はこの時期に確立された。
この文化は、17世紀以降のヨーロッパの宮廷文化に大きな影響を与えたといわれている。
スレイマン1世と交易
スレイマン1世は、プレヴェザの海戦で地中海の制海権を獲得。さらに、イエメンからポルトガルを追放。西アジアの交易を独占した。
これにより、地中海の交易拠点は、エジプトからシリアに移った。これによりカーリミー商人は衰退した。
また、スレイマンは交易相手をヴェネツィアからフランスに切り替えた。当時、フランスとオスマン帝国はともにハプスブルグ家(スペイン・ドイツ)と戦っていた。
スレイマン1世とエジプト
さて、この時期のエジプトはどのような状況であったのであろうか。エジプトではマムルーク朝の残党がたびたび反乱を起こし、統治は安定しなかった。それは総督が1年ごとに変わるほどであった。
しかし、スレイマン1世の時代に入ると皇帝の権力が大きくなった。その影響でエジプトの反乱も沈静化していった。
セリム1世に征服される
西アジア版、長篠の戦い
オスマン帝国はセリム1世の時代から大国の認識をされるようになった。そのきっかけとなったのがチャルディランの戦いである。
チャルディランの戦いは、皇帝の親衛隊であるイエニチェリの鉄砲隊とイラン(サファビー朝)の騎馬隊の戦いである。鉄砲部隊が騎馬隊に勝利し戦いなので、私は西アジア版長篠の戦いとして記憶している。
イランのサファヴィー朝は、この戦いに敗れ西方への侵攻が止まった。その後、スレイマン1世の時代に入るとイラクやアゼルバイジャンがオスマン帝国に奪われる。
一方、オスマン帝国はこの戦いで勝利したことで東方の憂いが亡くなった。跡を継いだスレイマン1世は積極的に外征を進めた。
この戦いで、鉄砲の威力がシパーヒーたちにも伝わった。これにより皇帝専制政治のきっかけとなった。
エジプトを征服
セリム1世は、チャルディランの戦いに勝利すると軍隊をエジプトへ向た。鉄砲と大砲を用いて、エジプトのマムルーク朝を滅ぼした。
セリム1世はこれにより権威と経済力を獲得した。経済力では、地中海交易の拠点であるエジプトとシリアを獲得した。また、権威としては、2つのものを手に入れた。マムルーク朝はアッバース朝のカリフの子孫を保護していた。セリム1世は楚のカリフの子孫からカリフの地位を継承した。これによりオスマン皇帝はカリフを名のる庸のになった。これをカリフ=スルタン制という。さらにヒジャーズ地方にある聖地メッカとメディナの保護者になった。
これにより、オスマン皇帝は経済力と宗教的権威を獲得。イスラム世界で最も影響力のある人間になった。
ポルトガル海軍に敗北
大航海時代の復習
15世紀末、パスコ=ダ=ガマは、インド航路を開拓した。これによりエジプトを通らずにアジアの物品がヨーロッパに入るようになった。
しかし、現在も貿易船が喜望峰を回ることは少ない。圧倒的にエジプト経由で輸入するほうが安い。では、なぜこの時代喜望峰経由でアジアの品々がヨーロッパへ入るようになったのであろうか。
15世紀までのインド洋交易
15世紀までのインド洋交易の中心はカーリミー商人(ムスリム商人)であった。カーリミー商人はエジプトのカイロに拠点を置き、紅海からイエメンを通りインド洋各地で交易を行った。
15世紀、マムルーク朝がエジプトからイエメンまでを統治していたのでカーリミー商人はインド洋交易を独占することができた。
ディウ沖の海戦
15世紀末、ポルトガルはインドへの航路を発見した。しかし、これを商業利用することはできなかった。その理由は、その航路にあるアラビア海がエジプト(マムルーク朝)に抑えられていたからである。
ポルトガルは、インド洋に海軍を派遣。ディウ沖の海戦が勃発した。この戦いにポルトガルは勝利。
エジプトのマムルーク朝はインド洋交易から撤退。これにより、ヴェネツィア=カイロの東方貿易は衰退した。ポルトガルがインド洋交易を独占するようになった。
中世のエジプト
いよいよ、次回から中世のエジプト編へはいります。中世のエジプトは、3つの時代に分かれます。イスラム勢力に支配された時代。エジプト王朝の時代。そして、カリフの守護者としての時代である。