17世紀前半のエジプト 総督とマムルーク

17世紀後半のエジプト

 近代のエジプトは、オスマン帝国の支配下にあった。この時代のテーマはオスマン帝国との関係が重要になる。

 17世紀後半のエジプトは、エジプトの役人であったベイ同士の対立が表面化した時代であった。

 今回見る17世紀前半は、ベイの発言力が高まっていく過程を見ていきます。

ベイの台頭

 ベイとは、税の徴収を担当する役人で、給料はオスマン帝国から払われていた。

 16世紀のエジプトは、まだオスマン帝国の支配体制が隔離すせず、旧勢力の反乱に手を焼いていた。

 しかし、17世紀に入ると旧勢力が一掃されオスマン帝国の支配体制が確立された。

 ここで、オスマン帝国の財政について、話をしよう。オスマン帝国は2つの税制を併用している。通常はオスマン帝国に直接税金を納め、地域の役人はオスマン帝国から給料が支払われた。この制度はエマーネット制という。

 ただ、多くの地域ではティマール制を採用していた。ティマール制とは、騎士に給料の代わりに徴税権を与える制度であった。騎士は、税金を徴収して地域の役人に給料を支払った。このように徴税権を得た騎士はシパーヒーと呼ばれた。

 エジプトでは、重要な穀物の産地のため、エマーネット制が採用された。ベイとは、オスマン帝国のかわりに徴税を担った役人である。有力な部族の長などがこの役職についた。

 17世紀に入り、エジプトの統治が安定するとオスマン帝国から給料が払われるのではなく税金の一部を給料にする制度へ変更されるようになった。これをイルティザーム制という。これによベイの発言力が拡大した。

 また、ベイは当初は地方の有力者であったが、旧勢力のマムルークの家系から就く者もあらわれた。また、地方で戦果を挙げた軍人もベイとしてエジプトに流入した。

 これにより、マムルークと非マムルークの対立が始まった。

奴隷を打ち砕く総督

 ここからは、17世紀初頭のオスマン帝国の支配体制の確立過程を見ていきます。

 10年、エジプトは反乱の最中にあった。そこに送り込まれたエジプトの総督がクルクランである。クルクランは、2月にカイロに入城。反乱の首謀者を処刑。これによりエジプトの反乱は言鎮圧した。

 クルクランは「奴隷を打ち砕くもの」と呼ばれるようにあった。エジプトの歴史家は、この事件を「オスマン帝国の第二のエジプト征服」と語った。

 クルクランは、大規模な財政改革を行った。これまでの財政をエジプト風に改め、エジプト人の不満を解消した。

殺害された総督

 17世紀初頭のエジプトは、16世紀後半の価格革命の影響で急激なインフレが起きていた。これによりエジプトの兵士の不満が高まった。

 04年、エジプト総督は、給料の削減とトゥルバの禁止を行おうとした。トゥルバは正式な税金ではないがエジプト住民が直接エジプト兵士に税金のようなものを支払う慣習のことである。

 兵士は、エジプト総督を殺害。オスマン帝国は反乱鎮圧軍を派遣。エジプトとオスマン帝国の戦争が始まった。この時の絵ジプロ総督は、「殺害されたもの」と呼ばれるようになった。