18世紀前半のエジプト
18世紀前半のエジプトは内戦の時代であった。マムルークと非マムルークが互いに争った。この内戦に勝利したのが、アリー=ベイであった。
今回は、前回登場したマムルークや
17世紀後半のオスマン帝国
ハンガリーから撤退
18世紀後半、オーストリアはキリスト教国連合軍を結成。オスマン帝国は、キリスト教国連合軍の侵攻を受けた。18世紀末、カルロビッツ条約で和平が成立。オスマン帝国はオーストリアにハンガリーを割譲した。
ここから、オスマン帝国の弱体化が始まった。
第二次ウィーン包囲
オーストリアは、神聖ローマ皇帝ハプスブルグ家の領地である。18世紀半ばのハプスブルグ家は、三十年戦争の敗北で衰退期に入っていた。
18世紀後半、オスマン帝国は再びウィーン包囲を実施。神聖ローマ皇帝はウィーンを捨て、南ドイツのバイエルンに避難した。このウィーン包囲は、ポーランド王国の援軍によって解放された。
イエニチェリの台頭
イエニチェリは、皇帝の親衛隊である歩兵部隊。イエニチェリは、バルカン半島などの征服地で徴兵された改宗者で構成された。16世紀の登場した鉄砲を使いこなし軍隊の主力部隊となった。
17世紀に入ると、政治にも大きく関与するようになった。その一部はエジプトの高官についた。
キョプリュリュ・アメフトの改革
キョプリュリュは17世紀後半のオスマン帝国の大宰相である。キョプリュリュは、オスマン帝国の財政改革を進めた。
エジプトでも、増税とイスタンブルへの送金額の増額を求められた。時の総督は、増税と送金額の増額を試みたが効果はほとんど得られなかった。
マムルークと非マムルーク
17世紀、エジプトでは2つの派閥が争っていた。
1つ目の派閥は、マムルークである。オスマン帝国はマムルーク朝を征服した際に、マムルーク朝の統治機構をそのまま残した。その残党がマムルークである。
2つ目の派閥は、非マムルークである。彼らはエジプト以外の出身者でオスマン帝国への貢献でエジプトの高官となった。
エジプト総督は、この2つの派閥対立と巧みに使い、エジプトを統治した。
17世紀に入るとイエニチェリが侵入。彼らはマムルーク派と非マムルーク派に分かれた。17世紀後半の間は、ただの権力闘争であったが、18世紀に入るとこれが武力衝突まで発展した。