18世紀前半のエジプト マムルーク VS 非マムルーク

18世紀後半のエジプト

18世紀後半のエジプトは、ベイ(徴税請負人)のトップであるアリーベイがオスマン帝国に対して独立運動を進め、ある程度の自治権を獲得した。しかし、この混乱に乗じて、フランスのナポレオンがエジプトへ侵攻。再び戦乱の時代へ入っていった。

 さて、今回は、ベイ(徴税請負人)のトップであるアリーベイがどのようにしてエジプトを掌握していったのかを見ていきます。

18世紀前半のオスマン帝国

チューリップ時代

 では、当時のオスマン帝国の様子から見ていきましょう。18世紀前半、オスマン帝国は比較的に安定していた。この時代をチューリップ時代という。

 オスマン帝国はフランスとの関係が良好であった。当時のフランスはルイ14世の絶対王政の時代。フランスの宮廷文化がオスマン帝国へ持ち込まれた。

 一方で、コーヒーやチューリップなどのオスマン帝国の文化がヨーロッパ全体に広がったのもこの時代である。

ロシアの台頭

 18世紀は、ロシアが台頭する時代であった。時の皇帝はピョートル1世である。北方戦争に勝利したロシアは、オスマン帝国へも侵攻した。これは撃退したが、中央アジアのアゾフ海を領土とした。

アリー=ベイ

 アリーベイは、カフカス地方出身のマムルークである。当時のアリーベイはベイ(徴税請負人)のトップであった。そのため、エジプトでは、総督(ワーリー)よりも影響力を持っていた。

 18世紀前半になると、エジプトではベイ同士の内乱状態になった。この内乱で勝利したのがアリー=ベイである。アリー=ベイは、エジプトの中枢を側近で固めた。

 オスマン皇帝は、これに警戒感を示した。18世紀半ばにロシアとの戦争が始まる。オスマン皇帝は、ロシアとエジプトの挟み撃ちになることを恐れて、アリー=ベイの処刑命令を出した。これをきっかけに、アリー=ベイは反乱を開始する。

マムルーク vs 非マムルーク

 エジプトでは、ベイ(徴税請負人)が各地を支配していた。17世紀、このベイは2つの派閥に分かれていた。マムルーク出身の派閥とマムルーク以外のベイの派閥である。マムルークは、マムルーク朝時代からのエジプトの軍人である。一方で、非マムルークは、オスマン帝国のほかの地域の軍人がエジプトに移住してベイになった人たちである。

 一方、16世紀、オスマン帝国の主力部隊は、騎馬軍団から鉄砲軍団に変わった。その中心は、イエニチェリといわれる歩兵部隊であった。17世紀後半に入ると多くの鉄砲部隊がエジプトに派遣された。この鉄砲部隊は、ベイの2つの派閥に分かれるようになった。

 そして、18世紀に入り、2つの派閥は武力衝突。エジプトは内乱状態になった。

カフカス地方とは

 カフカス地方とは、西アジアの北側で、黒海とカスピ海の間にある山岳地帯である。カスピ海沿岸には油田があり、20世紀以降のこの地を巡り戦争が頻発した。90年代には、チェチェン紛争の舞台になったチェチェンもカフカス地方である。

 18世紀前半は、まだ、ロシア帝国の南下政策の前で、黒海北岸もオスマン帝国領であった。当然、カフカス地方もオスマン帝国領であった。