1850年代のエジプト クリミア戦争とスエズ運河

1860年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 1880年代編から、ムハンマド=アリー朝の時代を見ています。前回は、ウラービーの乱でエジプトがイギリスの事実上の保護国になる過程を見ていきました。

 さて、今回はスエズ運河の建設に踏み切った1850年代のエジプトを見ていきます。

スエズ運河建設

スエズ運河とは

 スエズ運河とは、地中海と紅海を結ぶ運河のことである。この運河ができるまでは大西洋からインド洋に出るには、南アフリカ(喜望峰)を回らなくてはいけなかった。

 フランスは、54年エジプトにスエズ運河建設の許可を得た。59年に着工した。

ナポレオン3世の出資

 当時のフランスは、ナポレオン3世の時代である。そのため、自国の投資ではなく海外への投資を積極的に行った。スエズ運河の建設はその一つであった。

 この計画は、19世紀初頭のナポレオン皇帝の時代から計画されたものであった。叔父の悲願を引き継いだものでもあった。

 なお、スエズ運河建設で陣頭指揮を執ったのは、外交官で実業家のレセップスであった。

イギリスは不可能と判断

 一方、イギリスはこの時に出資をしなかった。その理由はスエズ運河の建設は不可能と判断し、オスマン帝国内の鉄道建設のほうを重視した。

クリミア戦争

クリミア戦争とは?

 スエズ運河の建設許可を得た54年はクリミア戦争の真っただ中であった。

 クリミア戦争とは。53年から56年にかけてオスマン帝国とロシア帝国の間で行われた戦争である。オスマン帝国側には、フランスやイギリスなどがついた。その結果、。オスマン帝国サイドが勝利した。

19世紀のシリア

 クリミア戦争のきっかけは、聖地管理権であった。聖地管理権とは、オスマン帝国内にあるエルサレムのキリスト教教会の管理権のことである。

 もともと、フランスのブルボン家が持っていた。しかし、フランス革命で一時、ローマ=カトリックから離脱すると聖地管理権を放棄した。かわりに、聖地管理権をゆずりうけたのがロシア帝国であった。

 1850年代にナポレオン3世が皇帝になると、フランスはオスマン帝国に対して、聖地管理権の返還を要求した。オスマン帝国はこれに応じた。これがクリミア戦争のきっかけである。

 さて、当時のエルサレムのあったシリアはどのような状況にあったのであろうか。18世紀、シリアを含む西アジア全体はオスマン帝国の支配下にあった。1830年、エジプトが独立を求めると、エジプト=トルコ戦争が勃発。エジプトとトルコは、シリアをめぐって争った。1840年のロンドン会議で、シリアはオスマン帝国の領土となった。

 クリミア戦争後、シリアは3つのグループに分かれた。フランスが支援するマロン派キリスト教、イギリスが支援するイスラム教、そして、ロシアが支援する東方正教会である。この状況で、20世紀初頭の第一次世界大戦を迎える。

クリミア戦争に敗北したロシア

 ロシアは、クリミア戦争に敗北。バルカン半島の領土を放棄。黒海中立化により、黒海に軍艦を置けなくなった。この敗戦をきっかけにロシアは近代化政策を進めていく。その一つが、農奴解放令である。

オスマン帝国の財政難

 オスマン帝国は、クリミア戦争に勝利した。しかし、領土を拡張することはできなかった。また、クリミア戦争の戦費や近代化政策のために財政はひっ迫していた。