1900年代のエジプト イギリスvsドイツ

10年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 1910年代のエジプトは、第1次世界大戦によってワフド党の支持が高まる過程を見ていきました。

 さて、今回からは、イギリス植民地時代のエジプト王国の様子を見ていきます。イギリスは、エジプト、インド、南アフリカの3つの植民地を重要視していた。一方で、義和団の乱やブーア戦争でイギリスは自国のみで広大のしょくみ

(国際情勢)
日露戦争と三国協商

帝国主義の時代

 20世紀初頭の世界は、帝国主義の時代である。帝国主義を簡単に説明すると、欧米諸国(列強)がその他の地域を植民地にしていく時代である。

 1980年代のアフリカ分割。1890年代の中国分割によって、世界の大部分が植民地となった。欧米諸国は、自国の植民地を守るためグループを形成していく。そのグループ同士の戦いが14年の第一次世界大戦につながっていく。

三国協商の成立

 イギリスは、バグダードをめぐりドイツとの対立を深めていた。そのため。露仏同盟を結ぶフランス・ロシアに接近。三国協商を成立させた。

 日露戦争によって、英露のグレートゲームは終結。英露は英露協商によって互いの勢力範囲を承認しあった。これにより、列強(欧米諸国等)は、イギリスを中心とした三国協商陣営と、ドイツを中心とした三国同盟陣営の2つに分かれた。第一次世界大戦の構図はこのようにして完成した。

日露戦争

 04年、日本とロシアは朝鮮の宗主権をめぐり日露戦争を始めた。フランスとイギリスは、露仏協商に基づいて互いに中立の立場をとった。

 05年、日本が日本海海戦でロシアの主力艦隊バルティック艦隊を壊滅させた。日本は、アメリカの仲介により、日露戦争は終結した。アジアの小国が強国ロシアに勝利したことで、アジア諸国の人々に勇気を与えた。これが、イランの立憲革命やオスマン帝国の青年トルコ革命につながった。

 ロシアは、朝鮮の宗主権を失うととともに、満洲(中国北東部)の南半分の勢力圏を日本へ譲り渡した。これにより、ロシアは、南下政策を東アジア(日本・清王朝)から、青年トルコ革命で動揺するバルカン半島(オスマン帝国)へ舵を切った。

 一方、日本では、南満州まで勢力圏を拡大させたものの、ロシアから賠償金をとることができなかった。これにより日比谷焼き討ち事件が発生した。各国首脳はこれに動揺した。これが第1次世界大戦の多額の賠償金につながった。

日英同盟と英仏協商

 99年、イギリスは2つの植民地戦争に巻き込まれた。南アフリカのブーア戦争と東アジア(清王朝)の義和団の乱である。イギリス政府はこの2つの戦争で疲弊した。そのため、栄光な孤立制作から脱却。02年、日本と日英同盟を締結した。当時の日本は、日清戦争の勝利で一目を置かれていた。

 しかし、この日英同盟が新たな火種を生むことになった。朝鮮半島をめぐり日本とロシアの緊張関係が高まった。日本とロシアが戦争になれば、イギリスは、ロシアの同盟国のフランスと戦争することになる。これを避けるため、04年イギリスとフランスは、英仏協商を締結。これにより、イギリスは日露戦争を中立的な立場で見ることができた。

アフリカ情勢

モロッコ事件

 モロッコは、アフリカ北西部の国である。北は、ジブラルタ海峡をはさんでスペインにつながっており、西は、フランス領アルジェリアがある。14世紀には『三大陸周遊記』を著したイブン=バトゥータが生まれた国である。モロッコの首都は、ダカールである。サハラ砂漠を激走するパリ=ダカールラリーのゴールがダカールであることからわかる通り。モロッコはフランスの植民地である。

 04年の英仏協商で、イギリスとフランスは互いの勢力圏を相互に承認した。北アフリカでは、エジプトなどアフリカ北東部がイギリスの勢力圏、モロッコやアルジェリアなどアフリカ北西部がフランスの勢力圏とされた。

 04年に、各国の予測通りに日露戦争が勃発するとドイツはモロッコの独立運動をけしかけた。しかし、フランスやイギリスのこうぎにより、ドイツは一戦も交えずに手を引いた。

南アフリカ戦争

 アフリカは、アフリカ最南端の国である。大西洋とインド洋の境にあるため、19世紀半ばにスエズ運河ができるまでは海運の要所であった。

 もともとはオランダの植民地であったが、19世紀初頭にイギリスの植民地になった。70年代にスエズ運河の買収が行われると、交通の要所としての役割は終わった。しかし、同じ頃、南アフリカ内陸部でダイヤモンド鉱山や金鉱山が発見された。

 当時、南アフリカの内陸部には、オランダ系白人の国(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国)が存在した。イギリスは、99年にこれらの国へ侵攻。大きな犠牲を払って、02年にこれらの国の併合をした。

中東情勢

イラン立憲革命と青年トルコ革命

 次に、中東世界の様子を見ていきます。中東には、2つの大国が存在した。イランのカジャール朝とトルコのオスマン帝国である。この2つの国の人々は、05年の日露戦争で多くの勇気を得た。

 05年、イランのカジャール朝では、立憲革命がおこなわれ、憲法が成立した。しかし、時期が遅すぎた。07年の英露協商で、国土の大部分がイギリスとロシアの勢力圏となってしまった。

 オスマン帝国では、08年に青年トルコ党が挙兵。当時のスルタンを退位させ、停止されていたミドハト憲法を復活させた。しかし、この改革により国家が内戦状態により周辺諸国が次々侵攻していき、第一次世界大戦までに国土の大部分を失うこととなった。

第3次ワッハーブ王国

 それでは、日露戦争前の中東はどのようになっていたのであろうか。オスマン帝国は、ドイツと結びついて国領増強に励んでいた。イギリスはオスマン帝国を仮想敵国として妨害工作を行った。そこで目を付けたのがアラブ民族である。

 イギリスは。オスマン帝国によって国を失ったワッハーブ派のサウード家に接近した。02年、リヤドに第3次ワッハーブ王国を復活させた。

 一方で、メッカの太守のハーシム家にも接近していた。

3B政策と3C政策

 では、イギリスはなぜ中東に注目したのであろうか。それは、インドとエジプトの間にあったからである。当時のイギリスは、インドのほかにイランに勢力圏を確保していた。そのため、イランとエジプトを陸路でつなげれば陸路でも2つの植民地を結べることになる。

 そのため、イギリスは、エジプト(カイロ)→パレスチナ(イスラエル)→ヨルダン→イラク(バグダード)→イラン(カジャール朝)→インド(カルカッタ)のルートを確保しようとした。このルートは「エンパイア・ルート」と呼ばれる。そのため、イラク・ヨルダン・パレスチナを親英政権のハーシム家に、それより南のアラビアをサウード家に統治させ、オスマン帝国から中東を奪い取ろうとした。

 一方、オスマン帝国は国力増強のためにドイツと結びついた。ドイツとオスマン帝国は、ベルリン→バルカン半島→イスタンブル(ビザンティウム)→アナトリア半島(トルコ)→イラク(バグダード)→ペルシャ湾→インド洋(アジア諸国)へのルートを確保しようとした。

 2つの政策は、イラク(バグダード)でぶつかる。このバグダードをめぐり、イギリスは、ドイツ・オスマン帝国と対立するようになる。

宗主国イギリス

3C政策

 イギリスは、3つの植民地を重要視した。エジプト(カイロ)とインド(カルカッタ)、南アフリカ(ケープタウン)である。そのため、イギリスの植民地政策は3C制作と呼ばれる。

 イギリスはこの3つの植民地を陸路で結ぶように植民地を拡大していった。そのため、中東では。パレスチナとイラクを結ぶエ「エンパイア・ルート」を重要視した。一方で、アフリカでは、エジプトと南アフリカを結ぶ「アフリカ銃弾政策」がとられた。

栄光なる孤立からの脱却

 80年代まで、イギリスはビスマルク外交のおかげで同盟関係を結ばなくてもやっていくことができた。90年代に入り、ビスマルク失脚とすると、その状況は崩壊した。ロシアはフランスと結びついてイギリスを脅かす存在になった。また、ドイツも軍艦を大量に建造し、イギリスと戦えるまでの海軍力を持つようになった。

 90年代末には、南アフリカのブーア戦争と清王朝の義和団の乱が同時発生。イギリス一国による植民地の防衛が困難となった。

 そのため、イギリスは、栄光なる孤立からの脱却をした。日英同盟の締結である。その後、フランス・ロシアに接近。三国協商を完成させる。

 一方で、植民地へもある程度の自治権を与えるようになった。00年代には、オセアニアのオーストラリアとニュージーランドに自治権が与えられた。

植民地の反乱

 イギリス政府は、植民地の抵抗運動に対処し続けた。しかし、90年代末の南アフリカのブール戦争と清王朝の義和団の乱である。この2つの反乱はイギリスの政策転換に大きな影響を与えた。