30年代のエジプト
30年代、世界は世界恐慌に苦しんでいた。当時のエジプトは、エジプト王国時代で、ワフド党の政権の時代である。エジプト=イギリス同盟条約によって主権を回復した。
さて、今回は、ワフド党が政権を確保していく過程を見ていきます。
エジプト王国の復活
立憲君主制への移行
22年、イギリスは、エジプトの直接支配をやめ、エジプト王国を復活させた。23年には憲法を制定。エジプト王国は立憲君主制国家として再スタートを切った。
20年代のアラブ情勢
20年代、中東でも多くの王国が独立した。ハーシム家は、フセイン=マクホマン協定にもとづいて、イラク王国、ヨルダン王国を建国した。第1次世界大戦後のイギリスの委任統治領は、インドとエジプトを結ぶように設定された。エジプト→パレスチナ→ヨルダン→イラク→イラン→インドである。
一方で、アラビア半島で事件が起きた。サウード家の台頭である。サウード家は、ハーシム家と同じスンニ派であるが、イスラム原理主義のワッハーブ派を信仰している。アラビア半島は、メッカとメディアの2つの聖地を持つイスラム教において重要な拠点である。この地域は、ハーシム家のヒジャーズ王国があった。しかし、24年にヒジャーズ王国は、サウード家に併合される。これが、サウジアラビアの前身であるヒジャーズ=ネジド王国が成立する。
一方、フランスの委任統治領であったシリアは、独立が認めらえなかった。フランスは、キリスト教徒の多いレバノンを分離させ、シリアをけん制した。
また、アラビア半島の先端では、第1次世界大戦中にシーア派のイエメン王国が成立した。
アラブの独立運動
エジプトの独立運動
エジプトの独立運動の中心は、ワフド党であった。ワフド党は第1次世界大戦を契機に独立を勝ち取ろうとした。
19年3月の第一次世界大戦のパリ講和会議にワフド党の代表者は参加しようとした。しかし、イギリスはこれを拒否した。この事件をきっかけにエジプトの反英運動は激化。イギリスはエジプト王国の独立を認めざるを得なかった。
なぜ、アラブ諸国の独立運動は活発化したのか?
では、なぜ中東諸国はこの時期に独立運動が活発化したのであろうか。
時代は、1900年代までさかのぼる。05年、日本が日露戦争でロシアに勝利した。アジア・アフリカの人々はこのニュースに自信を持った。
1914年、第1次世界大戦が始まると、欧米諸国は植民地の人々に支援を求めた。18年には、アメリカのウィルソン大統領が平和十四原則を発表。ここで民族自決の考えが示された。
しかし、19年のパリ講和会議で民族自決の考えはうけいれられなかった。この怒りがアジア各地の独立運動に火をつけてしまった。
次回、1910年代のエジプトでは、そのアラブ諸国の独立運動が高まる過程を見ていきます。