1940年代後半のエジプト エジプト王国、第1次中東戦争に敗北

50年代のエジプト

 50年代、エジプト革命で王室が倒れ、親ソのナセル政権が成立した。これに対し、アメリカはエジプトへの資金援助を停止。ナセル大統領は、スエズ運河の国有化を宣言。第2次中東戦争が勃発した。第三勢力の台頭でエジプトは第二次中東戦争に処理。ナセル大統領はアラブの雄となった。

 さて、今回は、青年将校ナセル氏とエジプト国民が、エジプト王室打倒(エジプト革命)に向かったのかを見ていきます。1940年代後半の中東の大きな出来事は、第1次中東戦争である。今回は、エジプト王国の政治と第1次中東戦争をみていきます。

第一次中東戦争

第一次中東戦争後の中東

 48年の第1次中東戦争で、アラブ諸国はイスラエルに大敗した。パレスチナの大部分は、イスラエルの領土となった。その領土は国際連合の仲介案よりも広くなった。アラブ諸国が獲得できたのは、ガザ地区(エジプト)とヨルダン川西岸地区(ヨルダン)のみとなった。

 聖地エルサレムは、イスラエルとヨルダン川西岸地区(ヨルダン)によって東西で分割統治された。ユダヤ人の聖地は東(ヨルダン側)にあった。そのため、ユダヤ人には不満が残る結果となった。

 イスラエルの建国によって、パレスチナ人国家の成立はなくなった。多くのパレスチナ人は祖国を追われ、レバノンやヨルダンへパレスチナ難民として流入した。

 第1次中東戦争で、アラブ諸国の国王の権威が低下した。そこで生まれてきたのが、アラブ民族主義の流れである。エジプトの自由将校団やシリアのバース党がその例である。彼らは、帝国主義時代に築かれた格差の是正を行い、共和制を求めた。経済政策としては社会主義に近いため、彼らはソ連に接近した。52年にはエジプト革命が起き、エジプト王国は崩壊した。

第一次中東戦争

 第一次中東戦争は、ユダヤ人のイスラエル建国に対してアラブ諸国の反発が起こした戦争である。48年5月にユダヤ人がイスラエルの建国を宣言。アラブ諸国はこれに反発。国際連合(45年10月成立)が調停に入った。しかし、国際連合の調停はうまくいかず、第1次中東戦争は勃発した。

 アラブ諸国は、国王同士の仲が悪く、イスラエルが優勢の状態であった。49年1月、イスラエルとアラブ諸国は国際連合の調停案よりもイスラエルが良い条件で停戦した。

イスラエル建国宣言

 48年5月、ユダヤ人はイスラエルの建国を宣言した。これは前47年11月の国際連合のパレスチナ分割案を受けての建国であった。一方、パレスチナ人は、国際連合の分割案を承諾しなかった。これを支援するため、周辺のアラブ諸国が挙兵。第一次中東戦争へ発展した。

国際連合仲介案

 では、この国際連合の分割案とはどのようなものであったのだろうか。国際連合のパレスチナ分割案は、パレスチナの地にユダヤ人国家とパレスチナ人(アラブ人)国家の2つの国を建国し、聖地エルサレムは国際連合の委任統治領として残す内容であった。

 当時のパレスチナの人口構成は、アラブ人約123万人に対して、ユダヤ人はその半分以下の約60万人であった。これに対し、面積はユダヤ人の流入を踏まえてユダヤ人が半分以上の領土を持つ内容であった。そのため、パレスチナ人はこの提案に反発した。

パレスチナ問題とは

 では、なぜ国際連合はパレスチナ分割案を作ったのであろうか。

 時代を20世紀初頭の第一次世界大戦の時代までさかのぼる。第一次世界大戦前まで中東はトルコ民族のオスマン帝国の支配下にあった。このオスマン帝国はイギリスの敵であるドイツ陣営で参戦した。

 イギリスはオスマン帝国の弱体化を狙いアラブ民族の独立運動を支援した。特にハーシム家に対しては、フセイン=マクマホン協定でアラブ人国家の建国を約束した。一方で、戦費獲得のためにユダヤマネーを狙った。イギリスはバルフォア宣言でユダヤ人国家の建国を約束した。さらに、同盟国のフランスとロシアでサイクスピコ協定を結んだ。これがイギリスの三枚舌外交である。

 余談であるが、これは現代政治を見るうえでも重要なことである。2000年代の日本の民主党政権のマニュフェストは、だれに対してもよい政策を提案した。その結果、財源の不足でそのほとんどが実現しなかった。選挙に行くときはその点を踏まえていく櫃夜がある。

 話を本題に戻そう。第1次世界大戦はイギリス陣営の勝利で終わった。中東はサイクスピコ協定にもとづいて、イギリスとフランスの委任統治領となった。イギリスは、インド・イラン(ペルシャ)とエジプトを結ぶ領土として、イラク、ヨルダンとパレスチナを委任統治領とした。イギリスはイラクとヨルダンにハーシム家の国家を建設した。これによりそれぞれの不満はのこるものの三枚舌外交の2つは実現した。しかし、パレスチナはイギリスの委任統治領のままであった。

 そして、第二次世界大戦後の45年、イギリスで労働党のアトリー政権が成立した。アトリー政権は植民地政策に消極的であった。インドの独立の承認はその一例である。

 アトリー政権はパレスチナを放棄。45年10月に成立したばかりの国際連合に丸投げした。国際連合の中心はアメリカである。アメリカには多くのユダヤ人が生活している。そのため、パレスチナ問題への関心も高かった。そして、47年11月にパレスチナ分割案が発表された。

エジプト王室

ムハンマド=アリー朝

 では、後半ではエジプト革命以前のエジプトの様子を見ていきます。

 当時のエジプト王室は、ムハンマド=アリー朝であった。ムハンマド=アリー朝は、1830年代のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から事実上独立を果たして成立した。

 エジプト王国は、戦争や近代化政策で財政が困窮。とくにスエズ運河の建設では莫大な資金が使われた。そのため、1870年代に財政破綻。イギリスとフランスの保護国となった。1880年代のウラビーの乱でフランスが撤退。イギリスの保護国となった。

 1910年代の第一次世界大戦期に民族自決の動きが高まると、エジプトでも独立機運が高まった。エジプトではワフド党を中心に自治権拡大の動きが高まった。ワフド党の活躍により、自治権は拡大。イギリス軍の駐屯も、スエズ運河周辺とエジプトの南(スーダン)に限定された。

ワフド党

 当時、エジプトの政治の中枢にいたのはワフド党であった。ワフド党は、第一次世界大戦後の1919年に成立した。イギリスとの折衝を進めながら、エジプトの自治権拡大を進めていた。

 しかし、第一次中東戦争の敗戦により、ワフド党は国民の支持を失う。52年のエジプト革命でワフド党政権が崩壊。非合法化された。

旧宗主国、イギリス

 当時のエジプトはイギリスの保護国であった。1870年代の財政破綻でエジプトはイギリスの保護国となった。イギリスは、3C政策を展開。インド、エジプトと南アフリカを重要視していた。そのため、南アフリカへ向かうルートとしてのスーダンとインドの玄関口であるスエズ運河にイギリス軍が置かれていた。

 しかし、45年にアトリー労働党内閣が成立すると中東への関心が薄れていった。

アラブ連盟

 第二次世界大戦末期の45年3月、アラブ連盟が結成された。主戦場は北アフリカからヨーロッパに移っていた。エジプト国王は、ヨーロッパの混乱に乗じてアラブ連盟の結成を呼び掛けた。これにより、アラブ連盟が発足した。

 アラブ連盟は、王国の集まりであった。エジプト王国のほか、ハーシム家のイラクとヨルダン、サウード家のサウジアラビア、そしたシーア派のイエメン王国などが参加した。特にサウード家とハーシム家には因縁があり、結束力は弱かった。

 イスラエルが建国されると、アラブ連盟は共同歩調をとり第1次中東戦争へ突入した。しかし結束力の弱さから敗北した。

 アラブ連盟の本部は、発起人の関係でエジプトに置かれた。しかし、エジプト=イスラエル和平で、エジプトが脱退。現在はチュニジアに本部が置かれている。