1960年代のエジプト ナセル大統領が 第3次中東戦争に敗北

70年代のエジプト

 まずは、前回の復習をしましょう。70年代のエジプトは、サダト大統領の時代である。サダト大統領は、石油戦略を用いて第四次中東戦争に勝利。第三次中東戦争の雪辱を晴らした。しかし、イスラエルと和平条約を締結。アラブ諸国からの反感を買った。

 さて、今回と次回でサダト大統領の前任であるナセル大統領を見ていきます。今回60年代編は、第三次中東戦争の敗北でナセル大統領の権威が低下していく過程を、次回50年代編では、ナセル大統領が権威を高める過程を見ていきます。

  60年代のエジプトは衰退の一途をたどった。60年のアフリカの年、ナセル大統領は第三勢力の希望の星であった。しかし、第三次中東戦争で敗北。70年失意のうちに亡くなった。

ナセル大統領の死

ナセル大統領の辞意

 第三次中東戦争に敗北すると、ナセル大統領は辞意を表明した。しかし、エジプト各地で辞意撤回を求めるデモが発生。ナセル大統領は辞意を撤回した。

 しかし、ナセル大統領の指導力は国内外で大きく低下した。70年のヨルダン内戦も、ナセル大統領が仲介しようとした。しかし、仲介する前にナセル大統領は亡くなった。

ヨルダン内戦

 ヨルダンは、イスラエルの東にある内陸国である。北にはシリアとイラク、東にはサウジアラビアがある。ヨルダンはハーシム家が統治し、現在は立憲君主制の国なっている。

 ちなみにヨルダン内戦は、ヨルダン政府とPLO(パレスチナ解放機構)との戦いである。第三次中東戦争でイスラエルが勝利すると多くのアラブ系パレスチナ人が難民としてヨルダンへ流入した。PLOも拠点をヨルダンへ移した。

 70年9月、ヨルダン国王フセインは、PLOに対して国外退去命令を出した。これにより、ヨルダン国内のPLOとヨルダン政府の内戦が勃発した。ナセル大統領は、この仲介に入ったが仲介をする前に急死した。

 内戦はPLOの敗北に終わった。その後、PLOはレバノンに拠点を置いた。レバノンは、イスラエルの北にあり、シリアとイスラエルに挟まれた地中海沿岸の国である。地中海沿岸で古くから交易で栄えていた。そのため、中東諸国の中ではキリスト教徒の比率が高い。内陸部は高地があり、冬ではスキーができるほど寒い。

サダト大統領の誕生

 70年9月にナセル大統領がなくなると、ナセルとともに自由将校団でエジプト革命を遂行したサダト大統領が誕生した。サダト大統領に課せられた最大の課題は、第三次中東戦争で奪われたシナイ半島の奪還であった。

 エジプト国内は、サダト大統領を中心にまとまった。しかし、アラブ諸国はそうではなかった。アラブ諸国を率いるリーダーが不在の状況が続いた。

サウジアラビアとOAPEC

 第三次中東戦争の敗北で、ナセル大統領の指導力は大きく低下した。その代わりに大きな発言力を持つようになったのがサウジアラビアのサウード家である。サウジアラビアは多くの油田を持っていた。OPECによって石油価格が上昇するとさらに発言力高めた。その特徴的な出来事がOAPECである。

 OAPECとは、アラブ石油輸出国機構の略称である。68年にサウジアラビアが結成。当初は、サウジアラビアに近いクウェートとリビアが参加した。70年、アルジェリアやドバイなどが参加。エジプトは、72年にシリアとイラクと同時に加盟した。

ナセル大統領の政策

 エジプト革命以前、エジプトの人々は苦しい生活を強いられていた。ナセル大統領は、その要因は2つあると考えていた。1つは、イギリスなどの国際資本家。そして2つ目は、イギリスと癒着したエジプト王室である。そのため、ナセル大統領の政策は3つの特徴を持った。

1つ目は、積極的な中立政策である。ナセル大統領にとって仮想敵国は、中東を支配していたイギリスとフランスである。一方で、アメリカとの関係を悪化させないようにソ連とも距離を置いていた。

2つ目はアラブ民族の統一である。ナセル大統領は、イスラエル建国の要因をアラブ諸国の分裂と考えていた。その理由は王同士の対立にあると考えていた。そのため、アラブ民族による統一的な共和制を構築することを考えていた。

3つ目は、社会主義政策である。ナセル大統領の最大の目的は、王と欧米諸国に独占された資本をアラブ民族に取り戻すことにあった。そのためには社会主義的な政策が有効であると考えていた。

 ナセル政権が成立すると、農地改革や銀行の国有化などが進められた。ナセルの政策にはイスラム法に反するものもあり、イスラム同胞団と対立するようになった。一方で、ソ連と一線を画するために極端な共産主義者も弾圧された。

第三次中東戦争に敗北

 第二次中東戦争の敗戦以降、イスラエルは苦難な時代が続いた。内部では、PLOが独立運動を展開していた。北では、シリアとヨルダン川の水源をめぐって争っていた。

 67年4月、シリアとイスラエルの緊張は最高潮を迎えた。エジプトのナセル大統領は、シリアを支援するためにイスラエルの国境にあるシナイ半島に軍隊を終結し始めた。

 当時、イスラエルの最大の支援国であるアメリカは、ベトナム戦争の真っただ中にあった。そのため、イスラエルへ援軍を送れる状態にはなかった。ナセル大統領もそれを見越しており、アメリカの仲介で平和裏に終結するものと予測していた。

 しかし、イスラエルは単独で軍事行動を起こした。6月、イスラエル空軍は、シナイ半島のエジプト空軍の拠点を奇襲攻撃。壊滅状態にした。これにより、アラブ諸国は総くずれ、わずか6日で第三次中東戦争は停戦に至った。

 イスラエルは、南のエジプトからシナイ半島とガザ地区を、北のシリアからはゴラン高原を、東のヨルダンからはヨルダン川西岸と東イェルサレムを獲得した。12世紀にサラディンが十字軍から奪還したイェルサレムはこの時完全に異教徒(ユダヤ人)の手に奪われた。

 この戦争で100万人以上のパレスチナ難民が発生。その大部分が、ヨルダンに避難した。

アラブの雄としてのナセル大統領

PLOの結成

PLOとは、パレスチナ解放機構のことで、イスラエルの支配下にあるパレスチナのアラブ人の解放を目指す武装組織である。64年5月、ナセル大統領などのアラブ連盟の支援によって結成された。

 PLOは、第三次中東戦争に敗北すると、拠点はヨルダンへに移った。70年のヨルダン内戦に敗北すると、拠点をレバノンへ移した。 

非同盟国首脳会議

 アフリカの年によって、第三世界が台頭した。その象徴的な会議が61年9月に開催された非同盟諸国首脳会議である。主催を呼び掛けたのは、インドのネルー首相であった。

 これに呼応したのが、ユーゴスラビアのチトー大統領とエジプトのナセル大統領であった。インドとエジプトは旧宗主国のイギリスの影響を受けないため、一方でユーゴスラビアはソ連に対抗するために同盟を結んだ。

 しかし、翌62年に中印国境紛争が勃発。インドは米ソに支援を仰ぐようになった。これにより、第三世界の発言力は低下した。

シリアの独立

 ナセル大統領は、アラブ民族の結集のためにシリアと合併してアラブ連合共和国を58年2月に建国した。しかし、ナセル大統領のカリスマ性からシリアの発言力はそれほど高くなかった。祖ため、シリアの保守派を中心に独立運動が起こった。

 61年9月、軍部がクーデターを起こし、アラブ連合共和国から離脱した。この後、ナセル大統領はエジプトの内政に集中するようになった。一方で、これで好機を得たのがイスラエルである。シリアの独立をうけて、イスラエルはシリアに圧力をかけるようになった。

 ちなみに、シリアの軍事クーデターで勢力が弱まったのがバース党である。バース党は、アラブ民族主義を掲げる政党である。経済政策では、王族と庶民の経済格差是正をすすめるため、社会主義に近い政策をとった。しかし、私有財産の所有を否定するものではなく共産主義政党と一線を画していた。バース党は47年にシリアで成立した政党で、アラブ諸国に広がった。シリアのアサド政権やイラクのフセイン政権などバース党政権の一例である。

アフリカの年とOPEC

 60年、アフリカの年でフランスの植民地を中心に多くアフリカ諸国が独立を果たした。

 ただ、石油産出国は多くの国で油田の国有化に成功していた。しかし、それでも豊かになることはできなかった。その理由は、石油価格がメジャーズ(欧米の国際石油資本)によって安く抑えられていたからである。60年9月、メジャーズが石油価格をさらに引き下げようとすると、石油産油国は結束してこれに対抗した。これがOPECである。

50年代のエジプト

 ナセル大統領の活躍で、60年のアフリカの年に多くの国が独立を果たした。次回50年代のエジプトでは、ナセル大統領が影響力を持つ結果になった第二次中東戦争とナセル政権の誕生の要因となったエジプト革命を見ていきます。

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