4世紀のスペイン 西ゴート人とゲルマン民族大移動

前回の復習 5世紀のスペイン

 5世紀のスペイン。ヨーロッパ各地にゲルマン民族が侵入していった。スペインも例外ではない。ローマ帝国の属州であったスペインに、ヴァンダル人が侵入。その後、西ゴード人が侵入した。

 今回は、前半で西ゴード人の歴史を、後半でローマ帝国の歴史をみていきます。

4世紀の国際情勢

 4世紀(301-400年)。日本は、古墳時代。ヤマト朝廷が日本統一に向かって動いて時代。中国では魏晋南北朝の戦乱期。北部では、北方騎馬民族が侵入、五胡十六国の戦乱が続いた。一方、南部では、戦乱を逃れて北部から多くの貴族が移住してきた。

 インドはグプタ朝の時代。イランはササン朝の時代。中東は、ササン朝とローマ帝国が

ゲルマン民族大移動

ゲルマン民族の大移動

 ゲルマン民族の大移動とは、4世紀末から6世紀半ばまでつづいたゲルマン民族の移住である。

 以下では、ゲルマン民族の大移動の始まりである西ゴート人のローマ帝国の侵入を見ていきます。

3世紀のゲルマン民族

 ゲルマン民族は、インド=ヨーロッパ語族に属する。英語やドイツ語などは、ゲルマン民族の言葉をルーツとしている。ゲルマン民族の身体的特徴は、長身でブロンドの髪、青い目や高い鼻が特徴とされている。

 ゲルマン民族は、ヨーロッパの北東部の北海やバルト海沿岸に拠点をおいていた。その後、西や南へ居住地を拡大していった。

 紀元前5世紀の頃からラテン人との交流がある。紀元前1世紀には、ガリアをめぐりカエサルと争った。

 その後、川によって国境が定まっていった。西の国境は、現在のライン川になり、南の国境はドナウ川になった。

アジア系騎馬民族の侵入

 フン族は、アジア系騎馬民族である。75年に東欧へ侵攻。

 最初にターゲットになったのは、南東部に拠点をおいていたゴード人であった。東ゴート人は、フン族の支配下に入り、西ゴート人は375年、移動を開始。76年にドナウ川にわたり、ローマ帝国へ侵入した。

ローマ帝国への反乱(アドリアノーブルの戦い)

 西ゴート人は、ローマ帝国内のバルカン半島北部に居住した。移民である西ゴート人は冷遇され、土地もないので、生活は困窮した。

 西ゴート人は、反乱を起こした。当時ローマ帝国の主力部隊はササン朝との戦争中であった。西ゴート人の反乱の情報を得ると、休戦。バルカン北部へ向かった。78年、ローマ帝国軍と西ゴート反乱軍が激突。これがアドリアノーブルの戦いである。

デオドシウス帝と西ゴート人

 ローマ皇帝は、この戦いで戦死。79年にデオドシウス帝が即位した。

アリウス派はなぜゲルマン人に広まったか? 

 キリスト教は、13年のミラノ勅令でキリスト教は公認された。そのような中で、エジプトのアレクサンドル教会で論争が起こった。父なる神と子なるキリストの優劣に関する論争で腕ある。アタナシウスは、神とキリストは一心同体と考えた。これは、三位一体説と呼ばれる。一方で、アリウスは、神とキリストは異質のものとした。

 25年、ローマ皇帝は、ニケーア公会議を開催、アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした。

 アリウス派は、ローマ帝国から追放された。追放されたアリウス派の人々は北方へ亡命した。そこにいたのがゴートなどのゲルマン民族の世界である。アリウス派の人々は、ゲルマン民族の人々に布教を行った。

ローマ皇帝と属州ヒスパニア

 2世紀末、ディオクレティアヌス帝が即位。軍事皇帝時代の混乱を収拾した。専制君主制を開き、キリスト教の大弾圧を実施した。そのご、ローマ帝国を四分割して統治した(テトラルキア)

 3世紀初頭、西の副帝であったコンスタンティヌス帝が13年、ミラノ勅令を発表。自分の領土内ではキリスト教を公認した。これにより、多くのキリスト教教徒の指示を集め、ローマ帝国を再統一した。そして、30年コンスタンチノーブル遷都を実施した。

 コンスタンティヌス帝がなくなると、息子たちに分割相続。これを再統一したのがコンスタンティヌス2世である。

 3世紀後半、ユリアヌス帝が即位。ギリシャ古来の宗教を復興しようとしたが、失敗。キリスト教中心の世界へと向かっていく。