10世紀のスペイン 3カリフ時代と後ウマイヤ朝の全盛期

前回の復習 11世紀のスペイン

 中世のスペインは、レコンキスタの時代である。すなわち、キリスト教勢力とイスラム教勢力が戦った時代である。

 11世紀、イスラム王朝の後ウマイヤ朝が滅亡。トレドを回復したカスティーリャ王国を中心にレコンキスタが本格化する時代である。

10世紀の国際情勢

 10世紀(901-1000)、日本は平安時代。新都の平安京の造営がおわると、東北への侵攻が始まった。8世紀末には、菅原道真の進言で遣唐使が廃止された。

 中国では、唐王朝が滅亡。五胡十六国の戦乱期に入っていく。ヨーロッパでは、

3カリフ時代

全盛期の後ウマイヤ朝

 10世紀前半、後ウマイヤ朝は全盛期を迎える。時のアミールは、アブド=アッラフマーン3世である。29年、アブド=アッラフマーン3世はカリフを自称した。

 アブド=アッラフマーン3世がなくなると、アラブ人(シリア出身者)とベルベル人(モロッコ出身者)が対立。11世紀初頭に滅亡した。

3カリフ時代

 9世紀になると、多くのイスラム教国は分裂していた。しかし、アッバース朝の宗教権威は尊重。イスラム教国の王は、世俗社会のトップであるアミールを主張し、アッバース朝のカリフを尊重した。

 一方で、現在のカリフを認めない宗派があった。これがシーア派である。909年、シーア派の人々が北アフリカのチュニジアにファーティマ朝を建国した。この国のトップは、アミールではなくカリフを自称した。

 なお、ファーティマ朝は10世紀なかばにエジプトに入る。

 これを受けて、アブド=アッラフマーン3世も、アッバース朝のカリフを否定。ウマイヤ朝を政党なカリフの家系として自らカリフを自称するようになった。        

イスラム教国の3つの称号

 イスラム教国の国王の称号は、3つある。カリフ、アミールとスルタンである。

 最初に使われたのは、カリフである。カリフは後継者を意味し、ムハンマドの後継者を意味するようになった。

 次に使われ始めたのが、アミールである。アミールはムスリム集団の長を意味する。遠征軍の長をアミールと呼ぶようになり、それが総督(地方長官)を意味するようになった。アッバース朝の影響力が低下すると、アミールたちは国王のように振る舞うようになった。それによって、アミールが国王を意味するようになった。10世紀のブワイフ朝は、アッバース朝のカリフから大アミールの称号を受けている。

 最後に使われたのは、スルタンである。スルタンは、権力者を意味する。スルタンは世俗の長を表し、キリスト教圏で言う工程に相当する。11世紀、セルジューク朝がバグダードに入場すると、アッバース朝のカリフは、セルジューク朝のトップにスルタンの称号を与えた。

キリスト教国と良好な関係

 全盛期の後ウマイヤ朝は、キリスト教の国とも良好な関係を気づいていた。神聖ローマ帝国(ドイツ)やレオン王国にも施設を送っている。」

ライバルの弱体化

 では、なぜ後ウマイヤ朝は全盛期に入ったのであろうか?。その要因は、2つのライバル国家の衰退にある。

 1つ目は、隣国フランク王国である。フランク王国は9世紀なかばに分裂。マジャール人やノルマン人などの侵入でごウマイヤ朝に関与する余裕はなくなっていた。

 2つ目は、中東のアッバース朝である。ファーティマ朝にエジプトとシリアを奪われ、イスラムのトップとしての権威がなくなっていた。

ナバラ王国とバスク人

ナバラ王国

 ナバラ王国は、スペイン北部国で、大西洋とフランス国境に面した国である。9世紀初頭に成立。都はパンプローナである。

 10世紀初頭に王家断絶。ヒメノス朝が成立。11世紀初頭のサンチョ3世の時代に全盛期を迎える。ナバラ王国はスペイン北部のキリスト教圏を統一した。

 このナバラ王国は11世紀に分裂。カスティーリャ王国やアラゴン王国のもとになる。

バスク人

 ナバラ王国があったのは、バスク地方である。この地域は山岳地帯であるため守りやすく攻めにくい地域であった。そのため、ローマやイスラム、フランクの影響をあまり受けてこなかった。

 キリスト教の伝来もだいぶあとになってからである。それまで、ケルト人系の事前崇拝を行っていた。この影響で独自の文化を形成してきた。この文化を継承しているのがバスク人である。

 現在も、バスク地方はスペインからの独立運動が展開されている。