前回の復習 15世紀のスペイン
15世紀のスペインは、カスティーリャ王国とアラゴン王国が合併し、スペイン王国が成立。15世紀末には、レコンキスタが完了し、大航海時代へ突入。コロンブスがアメリカ大陸に到達した。フランスとイタリア戦争が始まったのもこの時代である。
ポルトガルは、15世紀初頭から代行航海時代に入る。エンリケ航海王子の探検から始まり、15世紀末にはインドまでの航路を獲得する。
14世紀の国際情勢
14世紀の日本は、南北朝の戦乱期である。鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が成立。14世紀末にようやく、足利義満によって南北朝統一がなされる。
世界では、13世紀のモンゴル時代で東西交流が活発。ユーラシア大陸各地で感染症が流行した。これにより、中国では元王朝がが滅亡し、明王朝が成立。
キリスト教は教会大分裂に入る、神聖ローマ帝国では大空位時代。イギリスとフランスは、百年戦争に突入した。
ポルトガル王 ジョアン1世
ペストの流行
14世紀なかば、ペスト(黒死病)の流行が始まる。これにより、ポルトガル経済は大打撃を受けた。これにより、カスティーリャ王国の介入が強まった。
親カスティーリャの国王と反乱
ポルトガル王国は、カスティーリャ王国の支援でなんとか維持できていた。王室を中心に政府中枢は親カスティーリャ派になった。一方、地方の中小貴族は、反カスティーリャ王国派になった。
83年、親カスティーリャ王国派の国王が即位。これに対して、農民反乱が頻発。カスティーリャ王国は、自国のペスト対応のために撤兵。これにより反カスティーリャ王国派が台頭。85年、国会(コルテス)は、別の国王を指名した。それがジョアン1世である。彼らに投票したのは中小貴族や都市の富裕層であった。
国王ジョアン1世とエンリケ航海王子
85年、ジョアン1世が即位した。ジョアン1世を指示したのは、中小貴族と都市の富裕層(ブルジョア)であった。
国王ジョアン1世は、15世紀に入ると新プロジェクトを始めた。これが、アフリカ西岸部の探検である。これを指揮したのは、エンリケ航海王子であった。
カスティリャ王国
ユダヤ教徒の迫害
69年、エンリケ2世が王位継承争いに勝利。新国王として即位した。前国王のペドロ1世がユダヤ人を徴用したのに対して、新国王エンリケ2世は、反ユダヤ政策を行った。
イスラム教は、キリスト教に比べ異教徒に寛容であった。そのため、当時のスペインには多くのユダヤ人が生活していた。
一方で、忠誠のスペインはレコンキスタの真っ只中のため、他の地域に比べて熱心のキリスト教徒が多い。さらに、13世紀の十字軍でキリスト教熱は強まっていた。それが反ユダヤ感情を強めた。
この感情は、ペストの流行によって増長した。その理由は、清潔なユダヤ人は、他の地域に比べ死亡率が低かったためである。
91年、カスティーリャ王国南部のセビリアで、民衆がユダヤ人を襲撃する事件が起きた。このユダヤ人襲撃事件は、カスティーリャ王国全土に広がった。
これにより、多くのユダヤ人がキリスト教(カトリック)に改宗した。
王位継承問題と百年戦争
60年代、カスティーリャ王国はペストの流行で苦しんでいた。そのカスティーリャ王国で王位継承問題が起こった。国王ペドロ1世とエンリケ2世である。
この王位継承争いには、百年戦争の影響を受けた。ペドロ1世にはイングランドが、エンリケ2世にはフランスがバックに付いた。
レコンキスタ)サラードの戦い
レコンキスタとは、スペイン・ポルトガルにおけるキリスト教勢力とイスラム教勢力の戦いである。10世紀にイスラム教国の後ウマイヤ朝の滅亡で始まる。15世紀末、イスラム教国のナスル朝の滅亡で完了する。
サラードの戦いは、レコンキスタの中の1つの戦いである。キリスト教国のポルトガル・カスティーリャ連合軍とイスラム教国のナスル朝・マリーン朝連合軍の戦いである。サラードの戦いは、レコンキスタ終盤における最後の最大の戦争である。
それまで、ポルトガル王国とカスティーリャ王国は戦争中であった。そこへ北アフリカのマリーン朝がイベリア半島に侵攻したのである。
マリーン朝は、モロッコにあるベルベル人の国家である。13世紀にムワッヒド朝が滅亡すると成立。
この戦争でキリスト教勢力が勝利。マリーン朝はスペインから撤退した。しかし、ペストの流行で戦争は中断。ナスル朝の滅亡までは至らなかった。
ナスル朝のアルハンブラ宮殿
ナスル朝
ナスル朝は、スペインにある最後のイスラム王朝である。13世紀にムワッヒド朝はスペインから撤退したときに成立した王朝である。
ジブラルタル併合
74年、ナスル朝は、マリーン朝が領有していたイベリア半島最期の拠点ジブラルタルを併合した。
マリ王国
マリ王国とは
マリ王国は13世紀に、アフリカ西部のニジェール川流域に成立した王朝である。
ポルトガルの探検の目的
14世紀、イブン=バットゥータの『三大陸周遊記』でイスラム世界の様子は、まとめられていた。
さらに、東方貿易が盛んな時代で、ヨーロッパ世界とイスラム世界の交流も盛んであった。
これにより、ポルトガルもマリ王国の存在を認識。これが15世紀のアフリカ西岸の探検の目的の一つになった。
マンサ=ムーア王
マリ王国は、14世紀のマンサ=ムーア王の時代に全盛期を迎える。メッカ(アラビア)へ巡礼した。このときにマムルーク朝のカイロで大量の金を使ったと言われている。
また、旅行家イブン=バットゥータの『3大陸周遊記』にも登場した。