前回の復習 1910年代のスペイン
1910年代は、第1次世界大戦の時代である。スペインは政治が混乱し、戦争どころではなかった。ただ、スペイン風邪の流行や戦争インフレでスペイン経済は混乱した。
1900年代の国際情勢
1900年代は、日露戦争の時代である。日露戦争が集結するとイギリスとロシア・フランスが接近。三国協商が成立する。イギリス陣営の三国協商とドイツ陣営の三国同盟という第1次世界大戦の構図が完成してしまった。
バルセロナで暴動
悲劇の一週間
09年7月、バルセロナで労働者が暴動が発生。首相は鎮圧のために軍隊を投入。一週間で鎮圧。主犯格の数名が処刑された。
この高圧的な対応に国民は反発。社会主義者を中心とした反王党派の勢力が拡大した。国内外でデモが続出。国王アルフォンソ13世は現首相を更迭。穏健派の新政権が成立した。
第2次リーフ戦争
09年7月、スペインはもう1つの悲劇に見舞われた。これが第2次リーフ戦争である。モロッコ北部のリーフ地方の反乱である。
リーフ地方は、植民地ではなく、モロッコ王国の領土である。スペイン人は、リーフ地方へ移住。地元の部族と結んで鉱山開発を行っていた。そのため、リーフ地方はスペインと結んだ部族とモロッコ王国と結んだ反スペイン派の部族で対立していた。反スペイン系の部族がスペインからの移住者を殺害。これをきっかけに始まったのが第2次リーフ戦争である。
スペイン政府は、リーフ地方に軍隊を派遣。多くの犠牲を払ってようやく鎮圧した。その直後に起きたのがバルセロナの「悲劇の一週間」である。
第2次リーフ戦争で多くの犠牲者を出したことで、現政権は国民の支持を失った。これも政権交代の遠因となった。
カタルーニャ独立問題とバルセロナ
カタルーニャ地方は、バルセロナを中心としたスペイン北東部の地域である。フランス国境と地中海に面した地域である。
始まりは、フランク王国(のちのフランス)のバルセロナ辺境伯領である。12世紀に隣国のアラゴン王国(スペインの前身)と同君連合に。14世紀にカスティーリャ王国と合同。スペインが成立。以後、スペイン=ハプスブルク家、スペイン=ブルボン家の支配を受ける。ただ、この地域は、スペインへの帰属意識よりも、旧バルセロナ辺境伯としての意識が高い。
これに火がついたのが、悲劇の一週間である。悲劇の一週間の弾圧でカタルーニャ地方の独立運動は加速。第一次世界大戦で民族自決の流れができると、この勢いは加速した。
カタルーニャの独立運動は、2010年代のユーロ危機で再燃。現在も続いている。
社会主義の台頭
悲劇の一週間の背景は、2つある。1つは、前述したカタルーニャ地方の独立問題である。2つ目は、社会主義勢力の台頭である。
71年、パリ・コミューンで社会主義政権が成立。ヨーロッパ各国に衝撃を与えた。各国は連携して社会主義勢力の弾圧を強化した。その中心が、ドイツ帝国宰相ビスマルクである。これにより第一インターナショナルは崩壊した。
89年、第一インターナショナルの反省をふまえて、ドイツで第二インターナショナルが結成。革命による社会主義の実現から議会によりsh会主義の実現にシフトした。このときに成立したのが、社会党や労働党など左派政党である。
第一次モロッコ事件
概要
モロッコ事件は、ドイツがフランスのモロッコを保護国化に待ったをかけた2つの事件の総称である。
第一次モロッコ事件とは以下の通りである。英仏協商に基づいてフランス政府がモロッコ王国に介入。これに反発してドイツが軍隊を派遣した事件である。軍艦を派遣した場所からタンジール事件とも言われる。
戦争を回避
ドイツは、イギリスの支援を当てにしていた。しかし、イギリスはフランス側を支持した。ドイツは世界2位の海軍力を保持していた。平時であれば、単独でもフランスと戦争できる余力があった。しかし、当時のドイツ帝国には力はなかった。東アフリカの植民地でマジマジ反乱が起きていたからである。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、国際会議を招集して戦争を回避した。これが06年1月にスペインで行われたアルヘシラス会議である。
イギリスやスペインなどヨーロッパ諸国が参加。多くの国がフランス側についた。ドイツの意見を取り入れ、表向きは門戸開放・機会均等が謳われた。しかし、詳細はフランスの主張を認める形になった。
ドイツの主張が認められた部分
- モロッコ王国の独立と領土の保全
- 貿易の自由化(門戸開放)と経済利益の機会均等
フランスの主張が認められた部分
- フランスを中心とした外国投資団による国立銀行の設立
- フランスとスペインに警察の指揮権
タンジール事件
05年1月、英仏協商に基づいてフランスはモロッコ王国に対して借款(国際引受)の見返りに内政改革要求を行った。内容は以下の通りである。
- フランス将校を顧問にした近代軍隊の整備
- フランス資本による国立銀行の創設
05年3月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールに上陸。フランスの内政干渉を批判する演説を実施。これをタンジール事件という。
これを受けて、モロッコ国王(スルタン)はフランスの要求を拒否。モロッコ・ドイツ連合軍とフランスの戦争直前まで至った。
06年1月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、戦争を回避するために国際会議を招集した。それがアルヘシラス会議である。
英仏協商
英仏協商とは、04年4月に締結されたイギリスとフランスの条約。これにより、イギリスとフランスは、この条約で互いの植民地を相互に承認し合った。
英仏協商の背景には、04年2月に勃発した日露戦争がある。フランsぬは、ロシアと露仏同盟を締結。イギリスは、02年に日英同盟を締結。相互に戦争になる直前であった。両国は、英仏協商を通じて日露戦争に対して中立の立場を取ることを約束した。
モロッコについては、フランスの勢力圏とされた。これが、翌05年1月のモロッコ王国への内政干渉要求につながる。
日露戦争と血の日曜日事件
タンジール事件や英仏協商の裏にあるのは、日露戦争である。
04年2月、日露戦争が勃発。04年4月に英仏協商を締結。英仏は日露戦争に対して中立の立場を取ることが決まった。
05年1月にロシアで血の日曜日事件が発生。皇帝の支持が低下した。さらに、03月奉天会戦でロシアが敗北。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、日露戦争の長期化を予測。タンジール事件に踏み切った。
しかし、ドイツ皇帝の予測は外れた。05月、日本海海戦は1日にして日本海軍の大勝で終わる。09月にはポーツマス条約が締結。日露戦争はまたたく間に終結した。国際政治の中心は東アジアからモロッコに変わった。ドイツ皇帝は全世界を敵に回すほど愚かではない。06年1月のアルヘシラス会議につながる。
モロッコ
ところで、19世紀末のモロッコはどのような状況であったのであろうか。
モロッコは、アラウィー朝の時代である。アラウィー朝は、17世紀後半にモロッコを統一したイスラム王朝である。イスラム教のスーフィズム教団の国である。国王はスルタンと呼ばれた。
スペインに残った最後の海外領土
スペインは、98年の米西戦争でほとんどの海外植民地を失った。唯一残ったのが、モロッコの南にある西サハラ植民地であった。
この地域は砂漠が多く、8世紀にイスラム勢力が侵攻した際も定住することがなかった。84年にスペイン植民地になり、同84年に始まったアフリカ=コンゴ会議で承認された。
タンジールとジブラルタ海峡
タンジールは、ジブラルタ海峡近く港町である。14世紀には、『三大陸周遊記』を著したイブン=バットゥータが産まれた。
15世紀にポルトガルが征服。以後、ヨーロッパ諸国に統治された、イスラム勢力により奪還された。
アラウィー朝は鎖国政策をとり、タンジールを唯一の貿易港としていた。
失った植民地
フィリピン
スペイン政府は98年の米西戦争に敗北。これにより多くの植民地を失った。
フィリピンは東南アジアの国で唯一のスペイン植民地である。16世紀前半にマゼランが上陸。16世紀後半に植民地となった。
19世紀末、フィリピンでは独立運動が激化。
グアム
キューバ
プエルトリコ
始まりは米西戦争の敗北
では、スペインが衰退したのは何故であろうか。それが98年の米西戦争である。強国であったスペインは、米西戦争の敗北で多くの植民地を失う。強国の地位もアメリカに奪われた。
スペイン国民は、米西戦争の敗北で「スペイン帝国の終焉」を予感させた。国民はスペイン王室へ大きく失望。反王党派や社会主義者が台頭した。
00年代のポルトガル
1910年革命
共和主義者は、当初議会を通じで共和政を目指していた。総選挙で敗北した。
共和主義者は、都市部では人気が高かった。しかし、農村部では王党派のほうが人気が高かった。
共和主義者は、議会による改革から、武力による革命にシフトした。これが1910年革命である。
余談だが、翌11年に中国で辛亥革命が発生。16世紀から続く清王朝は滅亡した。
国王暗殺
08年、共和派により国王と王太子が暗殺。国王の次男が国王についた。
軍事独裁政権
共和主義者の台頭
サバテロ政権は、スペイン軍をイラク戦争から撤退させた。