1960年代のスペイン アフリカの年とポルトガル植民地

前回の復習 1970年代のスペイン

 70年代のスペイン・ポルトガルは大転換期にあった。カーネーション革命でポルトガルは民主化した。スペインは、フランコ将軍が亡くなる。遺言に基づき、スペインブルボン朝が復活。shん国王はカーネーション革命を受けて民主化する。

 さて、今回は、カーネーション革命の原因になったアフリカ植民地の独立を見ていきます。

1960年代の国際情勢

 日本は、高度成長期の時代である。64年に東京オリンピック、70年に大阪万博が開催された。

 キューバ危機が起こると、米ソ間で軍縮交渉が始まった。また、ベトナム戦争が勃発。60年代後半には世界各地で学生運動が勃発。アメリカはベトナム戦争を継続できなくなり、フランスでは、ド=ゴール政権が崩壊した。

アフリカの年とポルトガル

アフリカの年とは

 60年は、アフリカの年と言われる。この年にアフリカの17カ国が独立を達成した。

 きっかけは、フランスである。アルジェリア戦争でフランスは疲弊。ド=ゴールの第5共和政が成立。ド=ゴール大統領は、アルジェリア以外のアフリカ植民の独立を容認した。これに、イギリスが追随した。

 その背景には、58年のスエズ動乱でエジプトがイギリス・フランスに事実上勝利したことがある。

ポルトガル植民地

 ポルトガルがアフリカ大陸に進出したのは、15世紀の大航海時代である。1884年のベルリン=コンゴ会議で植民地として3つの植民地が正式に承認された。

  • ギニア湾岸(アフリカ西岸)のギニア・ビサウ
  • アフリカ南部の西岸 アンゴラ
  • アフリカ南部の東岸 モザンビーク

 また、アジアにも植民地を保有していた。

  • インドのゴア
  • 東南アジアの東ティモール
  • 中国のマカオ

アフリカの独立運動

 56年のスエズ動乱をきっかけに、アフリカの独立運動が盛んになった。その中心は、北アフリカのアルジェリアであった。

 60年のアフリカの年で、アフリカの独立運動は加速した。

インド政府のゴア接収

 60年のアフリカの年、9月の国連総会で「植民地独立宣言」が採択された。

 翌61年、インドのネルー首相はソ連の支持を得てゴアへの軍事侵攻を実施した。ポルトガルのサラザール首相は、徹底抗戦を表明した。しかし、軍隊の大部分がアフリカの独立運動や東ティモールの防衛に向かっていたため、ポルトガル軍にインドと戦う余裕はなかった。

 総督などポルトガル人はパキスタンへ避難。ゴアは、インドに接収された。

独裁時代のポルトガル

 民主化前のポルトガルは、サラザールの長期独裁政権が続いていた。

 サラザール氏は、元は経済学者である。1929年に始まった世界恐慌を克服したことで国民の支持を集めた。

政権交代

 このテロは、総選挙の直前に起こった。このテロの影響でイラク戦争に賛成した国民党のアスナール首相に批判が集中した。小国民党は惨敗。政権交代が起こり、社会労働党のサバテロ政権が成立した。

その頃、スペインは

フランコ将軍の経済政策

 フランコ将軍の政策で一貫しているのは、反共産主義である。それは、1930年代のスペイン革命を知っているからである。

 フランコ将軍は、独裁政権でありながら強い支持を集めていた。その理由は、労働運動を抑え込み、大資本家の支持を集めた。これにより、経済は安定していた。

スペインの植民地

 では、70年代にスペインで革命がおこらなかったのであろうか。それは、植民地を持っていなかったからである。

 1898年、米西戦争でアメリカに敗北。スペインは、フィリピンなどの植民地を保有していたが、このときにすべて奪われた。