紀元前1世紀のスペイン 属州ヒスパニアとカエサル

前回の復習 1世紀のスペイン

 スペインは、紀元前2世紀から4世紀まで、ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)の支配下にあった。属州の1つとして、ヒスパニアと呼ばれた。ワインの名産地として、ローマ内外でヒスパニア産ワインが広まった。

 今回は、ローマ帝国の属州の経営を見てい行きます。

紀元前1世紀の国際情勢

 紀元前1世紀(BC100-BC1年)。日本は、弥生時代。小国が乱立していた時代。中国は、漢王朝の時代。漢の武帝によって、金王朝が完成した。

紀元前1世紀のローマ帝国

流れ

 1世紀のローマは、「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱期にあった。属州の拡大によって、ローマに格差が生まれた。その後、2回の三頭政治を経て帝政(元首政)へ移行する。

  • 平民派(一般市民) vs 閥族派(富裕層)
  • 平民派による第1回三頭政治
  • カエサルの独裁
  • カエサル暗殺による第2回三頭政治
  • オクタウィアヌスが皇帝に

平民派と閥族派

 紀元前1世紀になると、ローマ市民は、多くの土地と奴隷を持つ富裕層と、土地を失った無産市民に別れた。

 これに対し、格差を是正しようとする政治家が現れた。彼らが平民派である。中心人物がマリウスである。多くのローマ市民は、平民派を支持した。

 一方、現状を維持しようとする勢力も存在した。これが閥族はである。中心人物は、スラである。富裕層(貴族)で構成される元老院は、閥族派を支持した。

第1回三頭政治

 紀元前60年、平民派の有力政治家3人によるクーデターを実行した。ポンペイウス氏とクラッスス氏、カエサル氏である。

 クラッスス氏が戦死。ポンペイウス氏とカエサル氏が対立。ポンペイウス氏は、元老院を味方につけて独裁をしようとした。そこへカエサル氏は、ローマで軍事クーデター。カエサル氏の独裁政権が成立した。カエサル氏が、ローマに入る直前で軍隊の前でいった言葉が「賽は投げられた」である。ちなみにローマの手間にある川がルビコン川である。

カエサルの独裁

 紀元前46年、カエサル氏は、10年間の独裁官に就任。軍隊と国家財政を掌握した。

 しかし、2年後の紀元前44年、カエサル独裁官は暗殺。カエサル独裁は終わった。名言「ブルートゥス、お前もか」は、このときにカエサル独裁官が話した言葉である。

第2回三頭政治

 カエサルが暗殺されると、カエサルの部下たちによって鎮圧。カエサルの部下たちによって第2回三頭政治が始まった。アントニヌス、レピドゥスとオクタウィアヌスである。

帝政へ

 オクタウィアヌスは、レピドゥスを失脚させる。さらに、アクティウムの海戦でアントニヌスに勝利。オクタウィアヌスの独裁が成立した。

 ただ、オクタウィアヌスは、権力の全てを元老院に返上。かわりに、元老院は、「アウグストゥス」の称号をオクタウィアヌスに与えた。これが帝政の始まりである。

属州と格差社会

紀元前1世紀の共和政ローマの経済

 共和政ローマは、紀元前2世紀に多く除く州を獲得した。これにより、広大な農地と奴隷を獲得した。この農地は、少数の貴族で分割された。少数の貴族は、奴隷を使った大規模農場経営(ラティフンディア)を行った。

 また、総督に任命された貴族は、税金の水増しなどで私腹を肥やした。貴族は、ここで獲得した資金を使って、没落農民が放棄した農地と戦争奴隷を買い集めた。そして、行われた

 一方、戦争に参加した平民は、農作業に従事できないことで農地が交配した。さらに、属州や大規模農場から大量な農産物の流入で農産物価格が下落。農業で生活ができなくなった。彼らは農地を捨ててローマに流入した。

 彼らは、有力政治家の庇護を受け、建築や軍事の仕事を請け負った。

紀元前1世紀の共和政ローマの軍事

 共和政ローマは、中小農民が武具自弁で戦争に参加した。しかし、紀元前2世紀末になると、没落農民の急増。没落農民は、武具を失うので戦争に参加できない。これにより、ローマ軍は急速に弱体化した。

 これにより、多くの反乱が発生した。これが内乱の1世紀の始まりである。

 ローマの有力者は、無産市民を職業軍人として雇用。これは私兵と呼ばれた。このときに起きた反乱は、有力な政治家の私兵によって鎮圧されるようになった。

 これにより、一部の有力政治家は、ラティフンディアで獲得した富と私兵による軍事力、反乱を鎮圧した名誉で他の貴族を圧倒するようになった。その結果、紀元前1世紀に入ると、少数の有力政治家が政治を掌握するようになった。これが、三頭政治やカエサルの独裁、帝政へ繋がった。

無産市民と「パンとサーカス」

 農地を捨てローマに流入した没落した農民には、重要な権力を持っていた。それがローマ市民権である。ローマ市民は、民会の参政権を持っていた。そのため、要職につくためには没落農民の支持が必要であった。

 そのために、有力者が没落農民に行ったのは、「パンとサーカス」である。有力者は、市民に安価に穀物(パン)を販売。さらに、見世物(サーカス)を開催した。その代表格は、コロッセウム(円形闘技場)で行われる剣闘士(見世物として戦を行う奴隷)の戦いであった。

三頭政治と属州ヒスパニア

紀元前1世紀初頭のヒスパニア

 ヒスパニアは、紀元前2世紀末の第2回ポエニ戦争で共和政ローマの属州になった。当時のヒスパニアは地中海沿岸部(南部)のみであった。北部は、先住民のイベリア人やケルト人などが生活していた。

第1回三頭政治とヒスパニア

 紀元前80年代、ヒスパニアで反乱が起きた。セルトリウスの反乱である。

 ヒスパニア総督であったセルトリウス氏が先住民のイベリア人に担ぎ上げられて反乱を起こした。

 この反乱は、ポンペイウスによって鎮圧された。当時、多くの反乱は、ポンペイウスによって鎮圧されていた。そのため、当時ローマで最も名声が高かったのがポンペイウスである。

 その後、ポンペイウスは、カエサル、クラッススとともに第1回三頭政治を開始する。三頭政治では、属州を3人で分割した。ヒスパニアは、引き続きポンペイウスが担当した。

第2回三頭政治とヒスパニア

 ポンペイウスがカエサルを破ると、ヒスパニアは反カエサルの拠点となった。紀元前45年、カエサルはヒスパニアへ遠征。反カエサルを一層した。

 第2回三頭政治が始まると、オクタウィアヌスが担当した。

アウグストゥスのヒスパニア統一

 オクタウィアヌスは、エジプトを征服し、地中海を統一。初代皇帝になる。その後、オクタウィアヌスが行ったのがイベリア半島統一事業である。紀元前19年にイベリア半島を統一した。

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