前回の復習 1850年代のフランス
1850年代のフランス。国民投票で、ナポレオン3世が皇帝に。クリミア戦争、アロー戦争、イタリア統一戦争に勝利し、フランスの発言力を高めていった。
1840年代の国際情勢
日本は、江戸時代後期。三大改革で最後の改革である天保の改革が行われる。この改革に失敗。53年の黒船来航をきっかけに幕末へ向かう。
中国は、清王朝の時代。アヘン戦争に敗北。アジアとヨーロッパの力関係が逆転する。
アメリカは、アメリカ=メキシコ戦争でメキシコに勝利。
革命の半世紀
19世紀後半のヨーロッパは、革命の世紀である。18世紀末にフランス革命が起きたあとも、フランスでは革命が続いた。その革命は、ヨーロッパに波及した。フランス革命から第二帝政までの流れは、次のとおりである。
- 1789年 フランス革命が勃発。
- 1799年 ナポレオンが実権を握り、フランス革命が終結
- 1804年 ナポレオン戴冠式。第一帝政へ
- 1815年 ウィーン体制で、復興王政へ
- 1820年 スペイン立憲革命
- 1830年 フランス七月革命、七月王政へ
- 1848年 フランス二月革命、第二共和政へ
- 1852年 フランス、第二帝政へ
七月王政と産業革命
ルイ=フィリップ
七月王政は、30年の七月革命で成立した王政である。ブルボン家の分家オレルアン家のルイ=フィリップが国王になった。
七月王政は、立憲君主制をとり、国会(議会)を設置した。40年、ギゾー内閣が成立した。
株屋の王
七月王政は、制限逝去を採用。一部の富裕層にしか選挙権が与えられなかった。中小企業の経営者や民衆などの市民の大部分は選挙権を得られなかった。
そのため、富裕層に優遇した政治が行われた。42年成立したフランス幹線鉄道設置法がその一例である。
フランス産業革命
七月王政の時代から、フランスの産業革命が大いに進んだ。
フランスは、イギリスと違い、国際競争力のある工業製品を作ることができなかった。その理由は、2つある。1つは、保護貿易政策である。これにより、大きな競争が起きなかった。2つ目は、労働力の不足です。通常では、産業革命で都市労働者の給料が上がると、貧しい農民が都市へ流入していく。しかし、フランスの場合は、フランス革命で自作農が急増。都市への人口流入がそれほど進まなかった。
産業革命が遅れ、工場経営者の資本蓄積が進まず、石炭による蒸気機関を使った工業は進まなかった。そのため、19世紀後半、国内の投資先が不足したため、海外への投資が積極的に行われた。また、手工業が中心のため、熟練工が活躍できる機会がのこった。彼ら熟練工が、現在のフランスのファッション業界を支えることになる。
社会主義者の台頭
産業革命の浸透ともに、パリでは労働者階級が誕生。社会主義者が台頭した。その代表が、ルイ=ブランである。
普通選挙運動と改革宴会
ジャガイモ飢饉
45年から、ヨーロッパでは凶作が続いた。特に深刻だったのがアイルランドである。そのため、この凶作は、ジャガイモ飢饉と呼ばれる。フランスも、凶作で農家は大打撃を受けた。
フランスの工業製品(衣料品など)は、フランス農民が購入していた。45年凶作により、フランス農民は、工業製品(衣料品など)の購入を控えた。これにより、不況は都市部へと広がり、中小企業の経営者や労働者の生活は困窮した。
改革宴会
不況により、多くの市民は政治に不満を持つようになった。これが、普通選挙運動に繋がった。
このとき、ギゾー首相は、失言をした。「選挙権を持ちたければ、金持ちになれ」というものである。この湿原で、普通選挙運動は拍車がかかった。
ギゾー内閣は、政治集会を規制。普通選挙運動の団体は、政治集会をやめ、レストランなどで「宴会」として、政治集会を開催した。これが「改革宴会」である。
47年7月、改革派はダンスホールで、舞踏会と称した政治集会を実施。これをきっかけに「改革宴会」が展開された。
二月革命
改革宴会の規制
48年2月、ギゾー政権は、「改革宴会」の禁止を打ち出した。
これにより、改革派は暴徒化した。
13日、改革派はパリにバリケードを設置。22日にパリで「改革宴会」を実施するとこを決定した。
国王の亡命
22日、パリで「改革宴会」が開催。パリでデモ行進顔行われた。
翌23日、ギゾー首相が辞任。その夜、改革派が勝利のデモ行進を行った。このとき、赤旗が振られた。これが後に共産党のシンボルになる。このとき、フランス軍がデモ行進に向かって発砲。50名程が死亡。改革派は暴徒とかした。この事件を「キャプシーブ街の惨劇」という。
翌24日、改革派は、国王のいるパリのテュイルリー宮殿を襲撃。国王一家はロンドンへ亡命。二月革命は終結した。
さまざまな改革派
七月王政は、少数の超富裕層に限定された。そのため、反対派は多種多様になっていた。
- 穏健共和派(ジロンド派)
中堅企業の社長や弁護士などの知識人
ラマルティーヌらが中心
共和政を進めるも、過度な革命は求めない - 急進共和派(ジャコバン派)
手工業者など、現在で言えばフリーランス的な人々
共和政を進め、革命を進めたい。 - 王党派(正統王党派)
フランス革命以前の王政を復活 - 王党派(オルレアン派)
七月王政のオルレアン家の王政の継続を求める - 穏健社会主義者
ルイ=ブランら
議会を通じて、労働者保護政策の実現を目指す。 - 急進社会主義者
資本主義をやめ、共産主義への以降を目指す。 - ナポレオン支持者
ナポレオンの子孫のルイ=ナポレオン(のちのナポレオン3世)の政権を目指す。
フランス革命によって、様々な政体が成立。好きな政体によって様々な政治派閥が形成された。また、社会主義などの新たな政治派閥も誕生した。
第二共和政
臨時政府
二月革命で国王が亡命した2月24日、臨時政府が成立した。メンバーはラマルティーヌら穏健共和派を中心に構成。急進共和派とルイ=ブランら社会主義者が参加した。
3月、臨時政府は、憲法制定議会の招集を決定。これに伴い、4月に男子普通選挙の実施を決定した。
また、ルイ=ブランらの意見を取り入れ、労働者向けの制作も実施した。一つは、労働時間の制限を決定。2つは、仕事を斡旋する国立作業場の設置である。
労働環境の整備とともに、フランス革命で実現した黒人奴隷の廃止を再び決めた。ちなみに、フランスは、02年にナポレオンが黒人奴隷を復活させた。
選挙で穏健共和派が勝利
4月、普通選挙を実施。通常は、急進共和派(ジャコバン派)や社会主義政党に有利な選挙システムである。
しかし、実際は穏健共和派が圧勝した。急進共和派や社会主義政党は大敗。ルイ=ブランもこの選挙で落選している。
その要因は、選挙権を持つ農村部の自作農が穏健共和派を支持したためである。彼らは、ジャコバン派の台頭を恐怖に感じていたい。
5月、第二共和政憲法が成立。議会は閉会。ラマルティーヌによる穏健共和派政権が、11月の大統領選挙まで臨時政府を維持することが決定された。この政権は、5名で構成。穏健共和派から4名、急進共和派から1名で構成された。
パリ、6月暴動
憲法制定議会は、財政を圧迫していた国立作業場の廃止を決定。
これをきっかけに、パリで労働者の暴動が発生した。この中には、ポーランドの独立運動を支援するものも多くいた。
6月暴動は鎮圧。これにより、フランスの多くの人々は、社会主義者の危険性を認識し、社会主義者の弾圧に好意的になっていた。