1870年代のフランス パリ=コミューンと第三共和政の始まり

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1870年代の国際情勢

普仏戦争

ナポレオン3世

 60年代のフランスは、第二帝政の時代である。ナポレオン3世が活躍した時代であった。

普仏戦争

 70年、普仏戦争が勃発。ナポレオン3世は、プロイセン(後のドイツ)の捕虜になる大敗。これにより、第二帝政は崩壊した。

 この混乱期に、イタリアはチュニジアに侵攻した。これにより、アルジェリアに進出したフランスと対立するようになる。

ボルドー臨時政府の成立

 一方、フランス軍は、70年9月のスダンの戦いで大敗。ナポレオン3世がプロイセンの捕虜になる。これの敗戦を受けて、パリ民衆が蜂起。これによって、第二帝政は崩壊した。

 第二帝政が崩壊すると、軍隊による国防政府が成立。一方で、プロイセン軍はパリを包囲。国防政府は、プロイセンとの講和交渉に入った。一方で、パリ市民は徹底抗戦を続けた。

ドイツ皇帝の戴冠式

 71年1月、プロイセン軍はパリとヴェルサイユを制圧。普仏戦争に勝利したプロイセンは、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝の戴冠式を行った。ドイツ帝国の崩壊になる第1次世界大戦の講和条約の調印も同じ場所で行われた。

 ドイツとの休戦協定が締結されるとフランス議会選挙を実施。王党派が勝利した。

 翌2月、ドイツ支配下のヴェルサイユではなく、南フランスのボルドーで国民議会を招集。国民議会で、ドイツとの講和が採択。講和条約が締結された。講和条約では、50億フランの賠償金の支払いと、アルザス=ロレーヌの割譲が記載された。

ビスマルク体制へ

 普仏戦争が終結すると、ドイツ帝国はフランスの復讐に備えるために、73年に東欧の有力国で三帝同盟を結んだ。参加国は、ドイツ帝国とオーストリア帝国(ハプスブルク家)、ロシア帝国である。

パリ=コミューン

 一方、3月にドイツ軍がパリに入城。これに対し、パリ市民は、抵抗。パリ市民は、独自政府であるパリ=コミューンを宣言した。ボルドー政府とドイツ連合軍は、5月にこれをようやく鎮圧した。

第三共和政

第三共和政の成立

 71年5月、パリ=コミューンを鎮圧。

 8月、ボルドー議会は、ティエールを大統領に選出し、議会を解散した。

岩倉使節団の訪問

 翌72年、岩倉使節団が訪米。パリ=コミューンで荒廃したフランスと普仏戦争に勝利したプロイセンを訪れた。

 73年、共和派のティエール大統領が罷免。王党派の大統領が誕生。

第3次共和政憲法

 75年1月、第3共和政憲法が制定。正式に第三共和政が始まった。

ベルリン会議

露土戦争

 77年、バルカン半島で独立運動をきっかけに、露土戦争が勃発。翌78年、ロシア帝国は、オスマン帝国に勝利。オスマン帝国は、バルカン半島諸国の独立を認めた。さらに、ロシアの保護国であるブルガリアが地中海沿岸に拠点を持った。これに、イギリスが反発した。

ベルリン会議

 78年、イギリス・オーストリアが反発すると、ドイツ宰相ビスマルクがベルリンで国際会議を招集した。

ベルリン条約

 この会議で、以下のことが決定された。

 ロシアの保護国のブルガリアの領土の一部をオスマン帝国に返還。

 オーストリアは、バルカン半島のボスニア=ヘルチェゴビナの統治権を獲得。

 イギリスは、地中海のキプロス島を獲得した。

新ビスマルク外交

 ベルリン会議で、三帝同盟が崩壊。79年、ドイツとオーストリアで独墺同盟が成立。82年、チュニジアでフランスとタイリスツするイタリアを引き込み、三国同盟に拡大。一方で、ビスマルクは、オーストリアなどとは秘密に、87年、ロシアと再保障条約を締結する。