1870年代のドイツ ビスマルク外交と ベルリン会議

 18世紀後半のヨーロッパ外交を取り仕切っていたのはドイツの宰相ビスマルクであった。今回はその最大の功績であるベルリン会議を中心にビスマルクを見ていきます。

ビスマルク外交の復活

 ビスマルクは、露土戦争の反省から、秘密外交政策へ転換した。78年、オーストリアと独墺同盟を締結した。81年にはこれにロシアを加えて、三帝同盟を復活させた。

 しかし、これらの同盟はイギリスに対し内密に行われた。そのため、80年代、イギリスを刺激することなく、ヨーロッパ全体が平和になった。

 この平和は、各国を帝国主義へ走らせた。

ベルリン会議

 78年3月、ロシアは露土戦争でオスマン帝国に勝利。セルビアなどバルカン半島の国々を独立させ、ブルガリアの領土を地中海沿岸まで拡大させた。親ロシア政権が地中海沿岸部に建国されたことになった。

 これを警戒したのが、イギリスとオーストリアであった。イギリスは、インド航路確保のため、東地中海のエジプトへの進出を模索していた。また、オーストリアは異民族を多く抱えていて、独立運動がオーストリアへ波及することを恐れていた。

 ビスマルクは、これを平和裏におさめるために各国首脳をベルリンへ集めた。

 まず、各国はセルビアなどのバルカン諸国の独立は承認された。一方で、ロシアの地中海進出を警戒するため、ブルガリアの領土は縮小され、地中海沿岸部(アルメニアと北マケドニア)はオスマン帝国へ返還された。

 一方で、イギリスとオーストリアへの配慮も行われた。イギリスはオスマン帝国から地中海のキプロス島を、オーストリアにはバルカン半島北西部のボスニアヘルツェゴビナの統治権を与えた。

 イギリスは、キプロス島の獲得によって、エジプトの植民地化を加速化させた。ボスニアヘルツェゴビナは、セルビア人が多く居住エリアで、これにより、セルビアとオーストリアの間に大きな亀裂が生じた。

 このベルリン会議は20年後、東アジアで転換される。日清戦争の三国干渉である。

 では、なぜビスマルクはベルリン会議を開催したのであろうか。それはイギリスを警戒したからである。フランスがイギリスと同盟を締結し、ドイツへ侵攻することを警戒したからである。

 一方で、イギリスとロシアは、ビスマルクに従ったのであろうか。70年代は不況の真っただ中にあった。特にイギリスは、ドイツやアメリカの台頭で世界の工場の地位を失っていた。戦争はあまりにも資金がかかるのでできれば避けたいのが本音だった。一方、ロシアもイギリスとドイツを同時に敵にする余裕はなかった。

 この露土戦争の裏側で国力を伸ばした国があった。東アジアの日本である。日本は、70年代半ばロシアと千島樺太交換条約を締結。さらに、江華島事件で朝鮮王朝を開国させた。

ビスマルク外交

 ビスマルク外交の特徴は、フランスの孤立化である。具体的には、イギリスもしくはロシアがフランスにつくことを避けたかった。事実、ドイツ帝国は、イギリス、ロシアとフランスを敵に回したことで第一次世界大戦に崩壊した。

 とくに、ロシアとフランスが同盟を締結した場合、ビスマルクは2正面作戦を余儀なくされるのでその悪夢の展開を避けたかった。

 73年、ビスマルクは、ロシア、オーストリアとともに三帝同盟を締結した。これにより東欧の平和が保たれた。

 しかし、三帝同盟はイギリスを怒らせた。77年の露土戦争である。ビスマルクはこれを平和裏に終わらせるために78年ベルリン会議を開催した。

ビスマルクの内政

アメとムチ

 ビスマルクの内政政策はアメとムチである。敵対する勢力を弾圧する一方で、社会政策を通じて味方を増やしていった。

ユンカー

 当時のドイツ帝国の中心は、ユンカーであった。ビスマルク自身をユンカーであった。ユンカーとは農場経営者である。産業革命によって農産物価格は高騰、ユンカーの発言力が大きくなった。

カトリックとの戦い

 ドイツは、プロテスタントの国である。しかし、南ドイツにはカトリック勢力が強い。これらの地域は、カトリックの総本山であるローマや、かつてのカトリックの守りであるオーストリアが近いためである。この南ドイツ諸国の中心的な国がバイエルンである。余談だか、ヒトラーはバイエルン出身である。

 南ドイツがドイツ帝国に併合されると、ローマ教会の支援の下、中央党が成立した。中央党は現在のキリスト教民主同盟(CDU) の前身となる組織である。

 ビスマルクは、70年代前半、カトリック勢力を弱める法律を次々成立させた。このような、ビスマルクとカトリック勢力との戦いを「文化闘争」という。

 しかし、社会民主党が台頭してくると、ビスマルクもカトリック勢力に妥協的になり、文化闘争は終結していった。

社会民主党との戦い

 71年、フランスのパリで労働者政権パリ=コミューンが成立した。この鎮圧で、セーヌ川は血に染まった。資本家や国王たちは社会主義の怖さを改めて知った。

 75年、ドイツでも労働者政党であるドイツ社会主義労働者党が成立した。のちの社会民主党(SPD)である。ビスマルクは、中央党と連携をしてこれに対応した。

 78年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世狙撃事件が発生。ビスマルクはこの犯人を社会主義者と宣伝。この事件を利用して社会主義者弾圧法を制定。ドイツ社会主義労働党は非合法化された。

 この法律は、ビスマルクが引退した1890年まで続いた。

社会政策

 一方で、ビスマルクは、労働者階級の支持を集めるための政策をおこなった。現代日本にもある国民皆保険である。これにより、多くの労働者と社会主義労働党の切り離しを行った。

ビスマルクをまねたヒトラー総統

 この手法をまねたのが、1930年代のナチ党である。ナチ党は国会議事堂放火事件を使って共産党や社会民主党を回答した。一方で、公共事業を使って失業率を下げ、労働者の支持を集めた。

ドイツ帝国の建国

普仏戦争でナポレオン3世を破る

 71年9月、フランス軍とドイツ軍が激突。フランス軍は皇帝ナポレオン3世が捕虜になる大敗を喫した。この情報は瞬く間にフランスへ伝わった。フランス政府はナポレオン3世の廃位を決定。資本家を中心とした臨時政府が成立。

鏡の間で戴冠式

 プロイセン軍は、翌71年1月にヴェルサイユ宮殿を占領。ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝の戴冠式が行われた。初代皇帝は、プロイセン王のヴィルヘルム1世であった。

 冠を授けたのは、南ドイツの有力国王バイエルン王であった。

 フランス人は、この屈辱を忘れなかった。ドイツ帝国の終焉である第一次世界大戦の講和条約もヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた。そのため、この条約はヴェルサイユ条約と呼ばれる。

労働者政権 パリ=コミューン

 71年2月、フランスとプロイセンは講和条約を締結した。多額の賠償金とアルザスロレーヌの割譲を決定した。この条約にパリ市民は激怒した。3月、パリで労働者が暴動。労働者政権がパリ=コミューンがパリを占拠した。パリ=コミューンは5月まで続いた。5月、フランス臨時政府軍とドイツ帝国軍によってようやくパリは解放された。

ドイツ帝国

 ドイツ帝国は、神聖ローマ帝国の後継の帝国ということで第二帝国と呼ばれる。

 議会を持つ立憲君主制の形をとったが、皇帝や宰相の権力が大きかった。この仕組みは大日本帝国憲法にも採用された。

岩倉使節団が見たドイツ

 明治新政府の71年、岩倉使節団を結成。欧米諸国を視察した。公家の岩倉具視を団長とし、維新の志士である大久保利通や木戸孝允、のちの初代内閣総理大臣である伊藤博文が参加した。

 ビスマルクは、この岩倉使節団を歓待している。ここで、パリ=コミューンの話や露土戦争直前のバルカン情勢についてんも話題になったものと思われる。この情報が、70年代半ばの外交戦略に影響を与えた。