12世紀のドイツ 第3回十字軍

前回の復習 13世紀のドイツ

 13世紀のドイツは、シュタウフェン朝が断絶し、大空位時代を迎えた。前半は、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世が活躍したが、やがて、ローマ教皇の破門を受けて国王を退位した。その後、シュタウフェン朝は断絶。13世紀後半には大空位時代を迎える。

 さて、今回は、前半では、シュタウフェン朝の全盛期であるフリードリヒ1世の時代を、後半ではシュタウフェン朝の成立過程を見ていきます。

第3回十字軍

フリードリヒ1世の死

 第3回十字軍は13世紀の末に結成された。この時に参加したのがフリードリヒ1世であった。神聖ローマ皇帝が参加した初めての十字軍であった。

 しかし、フリードリヒ1世は、イェルサレムに到達する前に亡くなった。

ローマ教皇の絶頂期

 12世紀末、ローマ教皇の権限は最高潮にあった。時のローマ教皇は、インノケンティウス3世であった。

オールスター戦

 インノケンティウス3世の勢力は、第3回十字軍のメンバーに現れていた。神聖ローマ皇帝以外にも、フランス国王とイングランド国王も参戦した。

ドイツ騎士団

 この第3回十字軍の時代に始まったのが、ドイツ騎士団出会う。ドイツ騎士団は、第3回十字軍で中東に領土を獲得した。一方で、東方植民を行い、東欧にも領土を獲得した。13世紀に入ると、スラブ人(ポーランド人など)とモンゴル騎馬軍団と戦った。

フリードリヒ1世

フリードリヒ1世とは

  フリードリヒ1世は、12世紀後半の神聖ローマ皇帝である。バルバロッサ(赤ひげ王)というあだ名があった。シュタウフェン朝の皇帝で、シュタウフェン朝はこの時期に絶頂期を迎える。

ロンバルディア同盟を建国

 フリードリヒ1世は、ローマ教皇(アレクサンデル3世)との関係は悪化していた。そのため、フリードリヒ1世は、新たなローマ教皇を次々と擁立した。

 ローマ教皇(アレクサンデル3世)は、これに対抗するため、北イタリアのロンバルディア同盟を使って皇帝フリードリヒ1世と戦った。

 ロンバルディア同盟は、北イタリアの都市同士の同盟である。北イタリアの都市は、エジプトとの交易で栄えていた。(地中海交易)。

 皇帝フリードリヒ1世はロンバルディア同盟との戦いに敗れ、北イタリアの都市に自治をみとめさせた。これが都市共和国である。

婚姻政策で領土拡大

 フリードリヒ1世は、東フランスの貴族、ブルゴーニュ公の娘と結婚した。これにより、神聖ローマ帝国では吟遊詩人のブームが起こった。

 また、長男は、南イタリアの両シチリア王国の王女と結婚した。

 

シュタウフェン朝

シュタウフェン朝の成立

 シュタウフェン朝は、12世紀から13世紀にシュタウフェン家が神聖ローマ皇帝を務めてた時代である。全盛期はフリードリヒ1世とフリードリヒ2世の時代である。

 しかし、イタリア政策を重視したため、ドイツ諸侯の分裂を招き、シュタウフェン家が断絶すると大空位時代に入る。

叙任権闘争を治める

 フリードリヒ2世は、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝である。前皇帝フリードリヒ1世の孫である。

 フリードリヒ2世は、宗教に左右されない合理的な政策を進めた。そのため、19世紀の歴史学者から最初の近代的人間と呼ばれら。

なぜ、第1回十字軍に参加していないのか

 13世紀は、モンゴルの世紀である。ヨーロッパもこの影響を受けた。40年、ロシアのキエフ公国がモンゴルの支配下に入った。

 翌41年4月、モンゴル軍は、東欧のポーランドへ侵攻。ポーランド・ドイツ騎士団連合軍はモンゴル軍に抗戦したが、大敗した。これがワールシュタットの戦いである。

 しかし、モンゴル軍の侵攻はここで止まった。モンゴル皇帝オゴタイ=ハンがなくなったからである。ヨーロッパ方面総司令官のバトゥはその後独立し、ロシアの地にキプチャクハン国を建国した。

イタリアの反乱

 34年、ローマ教皇とロンバルディア同盟は、フリードリヒ2世の息子を担いで反乱を起こした。

 ロンバルディア同盟とは、イタリア北部の都市共和国による軍事同盟である。神聖ローマ帝国のイタリア侵攻(イタリア政策)に抵抗するために結成された。ここには東方交易で栄えたヴェネツィアやミラノ(現在のACミランの本拠地)が参加した。

 フリードリヒ2世は、この反乱を鎮圧。37年にはロンバルディア同盟(北部イタリア)の諸都市を破壊した。

 40年、ローマ教皇はフリードリヒ2世を破門した。ドイツ王の地位は息子に引き継がれたが、54に死亡。シュタウフェン家は断絶。神聖ローマ帝国は大空位時代に入る。一方、シチリアはフランスに奪われた。

第5回十字軍

 フリードリヒ2世は、アラビア語も話せるほど中東情勢に強かった。そのため、十字軍遠征を先延ばしにしていた。そのため、フリードリヒ2世は破門された。

 そのころ、アイユーブ朝は、シリアとエジプトに分裂していた。その2か国の内紛が激しくなると、28年、フリードリヒ2世は第5回十字軍を編成し、派遣した。戦いは小規模で終了し、翌29年アイユーブ朝のスルタンと条約を締結し、エルサレムを兌換した。

 これにより、フリードリヒ2世の破門が解かれた。この事件により、破門の影響力がそれほど大きなものではないことが露見した。これが14世紀初頭のアナーニ事件につながる。

 この外交交渉はフリードリヒ2世にしか行えなかった。その理由はアイユーブ朝の情勢を把握していることとアラビア語を話せたからである。では、この能力はどこで身についたのだろうか。

シチリア王国

 フリードリヒ2世は、フリードリヒ1世の子とシチリア王女の間に生まれ、ドイツではなく南イタリアのシチリアで育った。当時のイタリアには、イタリア人の他に、アラビア人、ノルマン人(イギリス人)、ドイツ人、ビザンツ人が生活しており、国際色豊かな国であった。

 フリードリヒ2世は幼くして父親を亡くしたため、ローマ教皇インノケンティウス3世が後見人を務めた。そのため、フリードリヒ2世とローマ教皇の関係は良好であった。12年、インノケンティウス3世は、オットー4世を破門にし、フリードリヒ2世を神聖ローマ皇帝に即位させた。

 しかし、後見人であったローマ教皇インノケンティウス3世が16年に亡くなった。第5回十字軍で新たなローマ教皇との関係が悪化。フリードリヒ2世は破門させられた。

ナポリ大学

 フリードリヒ2世は、学問にも熱心であった。文芸を保護し、24年には南イタリアにナポリ大学を開いた。動物学者としても有名で、各地に動物園を作った。 

北海・バルト海交易

 12世紀頃から、北海・バルト海交易圏の商業が発展した。その理由は東方植民が盛んになり、バルト海沿岸の人口が急激に増えたためである。また、13世紀半ばにはモンゴルの侵攻でノルマン人の交易が沈静化したのも一因と予測される。

 商業が発展すると、商業都市が形成され、商人ギルドが構築された。商人ギルドとは都市の有力商人で形成された組合のことである。ギルドは他の商人を排除することで利益を独占した。日本でも同じ頃に座が形成され始めている。

 北海・バルト海商業圏では、穀物や木材・毛皮など安価な生活必需品が主に扱われた。そのため、大量な物資が動いた。また、地中海交易圏と異なり、都市間の関係は比較的良好であった。

 商人ギルドは14世紀に入ると同盟を結ぶようになった。これがハンザ同盟である。

 バルト海と北海を行き来するためにはデンマークを通らなければならない。これにより、14世紀にはデンマークとハンザ同盟が互いに争うようになった。

ドイツ騎士団が東方植民へ参加

 ドイツ騎士団は、第3次十字軍で結成。イェルサレムに拠点を置いた。しかし、13世紀末のアッコン陥落で拠点を失った。ドイツ騎士団は、中東から戻ると東方植民へ参加した。

 東方植民とは、エルベ川以東の地域の開拓事業である。開拓事業といえば聞こえがいいが、実態はポーランドへの侵略行為であった。

 リトアニアとポーランドの合同の目的は、ドイツ騎士団との戦いであった。その結果、ドイツ騎士団は15世紀に衰退の道を歩み始める。10年、ドイツ騎士団はリトアニア=ポーランド王国軍にタンネンベルグの戦いで大敗。54年から66年の十三年戦争で、ドイツ騎士団はバルト海沿岸の町グダンスクを奪われた。

 一方、ポーランドは、69年にリトアニアと完全に合併。以後、ポーランド王国と呼ばれる。