13世紀のドイツ 大空位時代

前回の復習 14世紀のドイツ

 14世紀のドイツは、神聖ローマ帝国と呼ばれていた。14世紀は、ルクセンブルク朝の時代。金印勅書によって神聖ローマ帝国の政治体制が確立された時代である。

 さて、今回は、金印勅書の要因となった大空位時代を見ていきました。

大空位時代

ハプスブルグ家の時代

 73年、ハプスブルグ家のルドルフ1世が即位した。これにより、大空位時代は終結した。しかし、政権は安定はしなかった。なぜドイツの諸侯はルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選んだのであろうか。

 ハプスブルグ家は、スイスの一諸侯に過ぎなかった。ドイツの有力諸侯たちは。強い皇帝を求めていなかった。そのため、弱小諸侯のハプスブルグ家に白羽の矢が立った。

 しかし、ドイツの有力諸侯に意に反して勢力を拡大した。ハプスブルグ家は、オーストリアとハンガリーを領有する用意なった。

 ルドルフ1世が即位すると、反ハプスブルク家同盟が結成。新工程にはナッサウ家のアドルフが選ばれた。

 ナッサウ家のアドルフが亡くなると、ハプスブルグ家のアルプレヒト1世(ルドルフ1世の子)が即位した。

 1308年、アルプレヒト1世は暗殺。ルクセンブルグ朝の時代に入っていく。

大空位時代

 50年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がなくなり、54年にシュタウフェン朝は断絶した。この後、神聖ローマ皇帝はフランスやイギリスの介入を受けたドイツ人以外の皇帝が選出されるようになった。この外国人皇帝の時代を大空位時代という。

 大空位時代によって、神聖ローマ皇帝に十字軍事業を継続させることはできなかった。そのため、48年の第6回十字軍、70年の第7回十字軍はフランスのルイ9世が行った。

フリードリヒ2世

シュタウフェン朝

 シュタウフェン朝は、12世紀から13世紀にシュタウフェン家が神聖ローマ皇帝を務めてた時代である。全盛期はフリードリヒ1世とフリードリヒ2世の時代である。

 しかし、イタリア政策を重視したため、ドイツ諸侯の分裂を間招き、シュタウフェン家が断絶すると大空位時代に入る。

最初の近代的人間

 フリードリヒ2世は、シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝である。前皇帝フリードリヒ1世の孫である。

 フリードリヒ2世は、宗教に左右されない合理的な政策を進めた。そのため、19世紀の歴史学者から最初の近代的人間と呼ばれら。

ワールシュタットの戦い

 13世紀は、モンゴルの世紀である。ヨーロッパもこの影響を受けた。40年、ロシアのキエフ公国がモンゴルの支配下に入った。

 翌41年4月、モンゴル軍は、東欧のポーランドへ侵攻。ポーランド・ドイツ騎士団連合軍はモンゴル軍に抗戦したが、大敗した。これがワールシュタットの戦いである。

 しかし、モンゴル軍の侵攻はここで止まった。モンゴル皇帝オゴタイ=ハンがなくなったからである。ヨーロッパ方面総司令官のバトゥはその後独立し、ロシアの地にキプチャクハン国を建国した。

イタリアの反乱

 34年、ローマ教皇とロンバルディア同盟は、フリードリヒ2世の息子を担いで反乱を起こした。

 ロンバルディア同盟とは、イタリア北部の都市共和国による軍事同盟である。神聖ローマ帝国のイタリア侵攻(イタリア政策)に抵抗するために結成された。ここには東方交易で栄えたヴェネツィアやミラノ(現在のACミランの本拠地)が参加した。

 フリードリヒ2世は、この反乱を鎮圧。37年にはロンバルディア同盟(北部イタリア)の諸都市を破壊した。

 40年、ローマ教皇はフリードリヒ2世を破門した。ドイツ王の地位は息子に引き継がれたが、54に死亡。シュタウフェン家は断絶。神聖ローマ帝国は大空位時代に入る。一方、シチリアはフランスに奪われた。

第5回十字軍

 フリードリヒ2世は、アラビア語も話せるほど中東情勢に強かった。そのため、十字軍遠征を先延ばしにしていた。そのため、フリードリヒ2世は破門された。

 そのころ、アイユーブ朝は、シリアとエジプトに分裂していた。その2か国の内紛が激しくなると、28年、フリードリヒ2世は第5回十字軍を編成し、派遣した。戦いは小規模で終了し、翌29年アイユーブ朝のスルタンと条約を締結し、エルサレムを兌換した。

 これにより、フリードリヒ2世の破門が解かれた。この事件により、破門の影響力がそれほど大きなものではないことが露見した。これが14世紀初頭のアナーニ事件につながる。

 この外交交渉はフリードリヒ2世にしか行えなかった。その理由はアイユーブ朝の情勢を把握していることとアラビア語を話せたからである。では、この能力はどこで身についたのだろうか。

シチリア王国

 フリードリヒ2世は、フリードリヒ1世の子とシチリア王女の間に生まれ、ドイツではなく南イタリアのシチリアで育った。当時のイタリアには、イタリア人の他に、アラビア人、ノルマン人(イギリス人)、ドイツ人、ビザンツ人が生活しており、国際色豊かな国であった。

 フリードリヒ2世は幼くして父親を亡くしたため、ローマ教皇インノケンティウス3世が後見人を務めた。そのため、フリードリヒ2世とローマ教皇の関係は良好であった。12年、インノケンティウス3世は、オットー4世を破門にし、フリードリヒ2世を神聖ローマ皇帝に即位させた。

 しかし、後見人であったローマ教皇インノケンティウス3世が16年に亡くなった。第5回十字軍で新たなローマ教皇との関係が悪化。フリードリヒ2世は破門させられた。

ナポリ大学

 フリードリヒ2世は、学問にも熱心であった。文芸を保護し、24年には南イタリアにナポリ大学を開いた。動物学者としても有名で、各地に動物園を作った。 

北海・バルト海交易

 12世紀頃から、北海・バルト海交易圏の商業が発展した。その理由は東方植民が盛んになり、バルト海沿岸の人口が急激に増えたためである。また、13世紀半ばにはモンゴルの侵攻でノルマン人の交易が沈静化したのも一因と予測される。

 商業が発展すると、商業都市が形成され、商人ギルドが構築された。商人ギルドとは都市の有力商人で形成された組合のことである。ギルドは他の商人を排除することで利益を独占した。日本でも同じ頃に座が形成され始めている。

 北海・バルト海商業圏では、穀物や木材・毛皮など安価な生活必需品が主に扱われた。そのため、大量な物資が動いた。また、地中海交易圏と異なり、都市間の関係は比較的良好であった。

 商人ギルドは14世紀に入ると同盟を結ぶようになった。これがハンザ同盟である。

 バルト海と北海を行き来するためにはデンマークを通らなければならない。これにより、14世紀にはデンマークとハンザ同盟が互いに争うようになった。

ドイツ騎士団とは

 ドイツ騎士団は、12世紀末の第3次十字軍で結成。リューベックやブレーメンなどの北海・バルト海交易圏の商人が建てた病院が起源である。十字軍としてあまり活躍はしなかった。

 ドイツ騎士団は帰国後、東欧への侵攻を進めていた。当時東欧にはスラブ人が生活していた。11年にはアジア系騎馬民族国家ハンガリーへ侵攻したが失敗した。