14世紀のドイツ ルクセンブルク家と金印勅書

前回の復習 15世紀のドイツ

 15世紀のドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれていた。15世紀にはルクセンブルク朝が断絶。ハプスブルク家に皇帝の地位が戻った。

 さて、今回はルクセンブルク朝の政治を見ていきます。

ジギスムント皇帝

ルクセンブルグ朝最後の皇帝

 ジギスムントは、14世紀末から15世紀初頭にかけての神聖ローマ皇帝で、ルクセンブルグ朝の最後の皇帝である。

 ルクセンブルクは、現在も国名に残っている名門貴族である。14世紀から15世紀前半にかけて神聖ローマ皇帝を輩出した。

 当時のルクセンブルグは、神聖ローマ皇帝である他、七選帝侯の一つ、ドイツ北東部のブランデンブルク選帝侯やチェコ(ベーメン)王やハンガリー王を兼任していた。

オスマン帝国に敗退

 当時の神聖ローマ帝国の拠点は、チェコとハンガリーであった。ハンガリーの南のバルカン半島では新たな敵が登場していた。それが、イスラム勢力のオスマン帝国である。ジギスムントは、96年のニコロポリスの戦いで、オスマン帝国軍に大敗。

 しかし、15世紀に入るとオスマン帝国軍の侵攻が一時止まった。イランのティムール朝が侵攻したためである。

カール4世

生い立ちと家系図

 カール4世は、ジギスムントの父であり、ジギスムントの前皇帝である。ルクセンブルグ朝の全盛期の王である。

 父は、チェコ(ベーメン)王の娘と結婚し、ベーメン王となっていた。カール4世は、チェコのプラハで生まれた。しかし、若くして父母とわかれ、少年期はフランスで生活した。彼を育てたのが、フランス=カペー朝最後の王であるシャルル4世であった。ちなみに、シャルル4世の王妃はカール4世の叔母である。

 47年、祖父ハインリヒ4世の跡を継いで神聖ローマ皇帝となった。

バビロンの捕囚を終わらせる

 カール4世が即位した14世紀半ば、ローマ教皇はローマにいなかった。

 09年、フランス王フィリップ4世が「教皇のバビロン捕囚」を実施。ローマ教皇は南フランスのアビニョンに移った。フランス育ちのカール4世も、47年にフランスのアビニョンで戴冠式を行った。

 カール4世は、77年にローマ教皇(グレゴリウス11世)のローマ帰還を実現した。しかし、翌年にローマ教皇は亡くなった。次期ローマ教皇を決める際に、フランス人枢機卿(教皇を選ぶことのできるローマカトリックの偉い人)とローマの枢機卿が対立。それぞれが独自のローマ教皇を擁立した。これが教会大分裂(大シスマ)である。

金印勅書

 金印勅書は、神聖ローマ教皇の選出方法など神聖ローマ帝国の統治方法を定めた書物である。金印勅書は、56年にカール4世によって定められた。

 では、なぜ金印勅書の作成が必要になった。金印勅書がが発布される約100年前の54年、シュタウフェン朝が断絶した。そこから、外国人が神聖ローマ皇帝になる大空位時代に入った。しかし、それ以外にも要因があった。それは、ハプスブルグ家の存在である。ルクセンブルグ朝に譲らないための皇帝の選び方を決めるものであった。

 金印勅書では、3人の聖職者と4人の世俗諸侯の選挙によって神聖ローマ皇帝を選ぶことになった。この7人の諸侯は選帝侯と呼ばれた。当然、この選帝侯にはハプスブルグ家の支配するオーストリアは含まれなかった。

 7選帝侯は、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ファルツ、ザクセン、ブランデンブルグとベーメンであった。

プラハ大学

 カール4世は47年に神聖ローマ皇帝に即位。翌48年に中欧で最古の大学プラハ大学を設立した。大学が設立されたのは、チェコであった。

ペストの流行

 イタリア戦争は軍事面で大きな変化をもたらした。それが鉄砲の使用である。それまで、主力部隊は騎馬隊であった。そのため、乗馬の訓練を受けた騎士しか戦闘に参加することができなかった。しかし、鉄砲であればそれほどの訓練を必要としなかった。

 また、軍隊の中心が騎士から傭兵に代わることで多くの領主は没落していった。そのため、ここから絶対王政の時代へ入っていく。

ハインリヒ7世

生い立ち

 ハインリヒ7世は、カール4世の祖父で、13世紀末から14世紀初頭にかけて神聖ローマ皇帝についた。

 ハインリヒ7世の父は、ルクセンブルグ伯で、それまでのルクセンブルク家は神聖ローマ帝国の一諸侯に過ぎなかった。

ハンガリーとチェコ 

 ハインリヒ7世が神聖ローマ皇帝になったころ、チェコは苦しい状況にあった。当時のチェコ(ボヘミア)王は、ポーランド王とハンガリー王を兼任していた。

 当時のポーランドは、東からは、モンゴル(キプチャクハン国)、西からは東方植民の侵攻が続いていた。

なぜ、神聖ローマ皇帝に

 では、なぜ、ハインリヒ7世は神聖ローマ皇帝になれたのであろうか。それを確認する前に14世紀初頭のヨーロッパ情勢を見ていただきたい。

 03年、ヨーロッパではセンセーショナルな事件が起きた。絶対的な権威を持っていたローマ教皇にたいし、フランス国王が退位を迫る事件が起きた。これがアナーニ事件である。これにより、ローマ教皇は憤死した。09年には、フランス人のローマ教皇が即位。教皇庁はローマからフランスのアビニョンへ移った。これは、教皇のバビロン捕囚といわれた。

 前皇帝は、ハプスブルグ家のアルプレヒト1世である。アルプレヒト1世は、教皇のバビロン捕囚の前年の08年に暗殺された。フランス国王フィリップ4世は、自分の弟を神聖ローマ皇帝に受けようとした。

 ローマ教皇やドイツの司教たちは、フランスの国力増大を警戒した。そこで選ばれたのが、弱小諸侯のルクセンブルク家のハインリヒ4世であった。

 ハインリヒ4世は、フランスの脅威とハプスブルク家の伸長を加味した中で選ばれた。

 ハインリヒ4世は、戴冠式のためにローマへ向った。しかし、教皇のバビロン捕囚でローマには教皇はいなかった。ハインリヒ4世は枢機卿から戴冠を受けることになった。 

ハンザ同盟の全盛

 神聖ローマ帝国の北部では、北海とバルト海を商業圏とした商人組合ハンザ同盟が存在した。ハンザ同盟の都市は、神聖ローマ皇帝から特許状をもらい封建領主から独立した存在であった。

 ハンザ同盟は、14世紀に全盛期を迎えた。カール4世の時代には、各都市の代表が帝国議会に参加するようになった。しかし、15世紀に入ると衰退が始まった。

ドイツ騎士団が東方植民へ参加

 ドイツ騎士団は、第3次十字軍で結成。イェルサレムに拠点を置いた。しかし、13世紀末のアッコン陥落で拠点を失った。ドイツ騎士団は、中東から戻ると東方植民へ参加した。

 東方植民とは、エルベ川以東の地域の開拓事業である。開拓事業といえば聞こえがいいが、実態はポーランドへの侵略行為であった。

 リトアニアとポーランドの合同の目的は、ドイツ騎士団との戦いであった。その結果、ドイツ騎士団は15世紀に衰退の道を歩み始める。10年、ドイツ騎士団はリトアニア=ポーランド王国軍にタンネンベルグの戦いで大敗。54年から66年の十三年戦争で、ドイツ騎士団はバルト海沿岸の町グダンスクを奪われた。

 一方、ポーランドは、69年にリトアニアと完全に合併。以後、ポーランド王国と呼ばれる。