1930年代のドイツ ヒトラーの台頭と 経済政策

第二次世界大戦へ

 第二次世界大戦以前、イギリスのチェンバレン首相はドイツのヒトラー総統を警戒しつつも友好的に見ていた。その理由は、ソ連のスターリン書記長を警戒していたからである。

 しかし、その友好関係が崩れる事件が起きた。39年8月、ドイツのヒトラー総統は、ソ連と独ソ俯瞰新条約を締結した。翌9月には、ソ連とポーランド分割を開始した。英仏は直ちにドイツへ宣戦布告。第二2次世界大戦はここに始まった。

 当時のソ連は、ノモンハン事件(5月)で日本と交戦中。ドイツと戦う余裕はなかった。スターリン書記長にとって渡りに船の条約であった。

チェコスロヴァキアの併合

 39年3月、チェコスロヴァキアでスロヴァキアの独立運動が発生。これに対し、ヒトラー総統は、イギリスのチェンバレン首相と交渉することなく、軍事介入。スロヴァキアの独立を実現させるとともに、チェコを併合した。さらに、バルト三国(リトアニア)の一部を併合した。

 この事件で、ヒトラー総統は、イギリスのチェンバレン首相の信任を完全に失った。

水晶の夜

 38年11月9日 、ドイツ全土のユダヤ人居住区が襲撃される事件が起きた。これは「水晶の夜」事件といわれた。

 この事件以降、ユダヤ人の出国は禁止。多くのユダヤ人は強制収容所へ連行されるようになった。

ミュンヘン会議

 37年11月、ヒトラー総統は、外務大臣や軍幹部と領土拡張について協議した。翌38年1月、国防長官や陸軍司令官など軍幹部を罷免。これにより、ヒトラー総統は軍を完全に掌握した。そして、同38年1月、ドイツはオーストリアを併合した。

 その後、ヒトラー総統はチェコスロヴァキアに領土を要求した。38年9月、この件について、英独仏伊がミュンヘンで協議した。この協定で、ヒトラー総統の主張は全面的に認められた。

 しかし、これに反発するものがいた。ソ連のスターリン書記長である。この協定によって、イギリスとソ連の関係は悪化した。

ベルリンオリンピック

 ところで、ヒトラーはどうして支持を集められたのであろうか。世界大恐慌からの脱却にある。ヒトラーは、アウトバーン建設などの公共事業で雇用を増やし、景気を回復させた。35年の再軍備によって、軍需産業が発展していった。そして、36年8月1日 ベルリンオリンピックを開催することができた。

再軍備

 35年5月16日、再軍備を宣言。徴兵制を復活した。翌4月、イギリス、フランスとイタリアは連名で抗議声明を出した。しかし、6月、イギリスのチェンバレン首相は英独海軍協定を締結。事実上、ドイツの再軍備は承認された。

 再軍備によって、ドイツ国内の軍需産業が復活。ドイツ景気の回復はさらに促進された。

 翌36年3月7日、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を破棄して、ラインラント進駐した。その理由は、前2月に締結された仏ソ相互援助条約であった。

 ラインラントは、フランス国境付近のドイツ領である。ルール工業地帯など経済的に重要な拠点で、昔からの独仏の係争地であった。ヴェルサイユ条約でこの地域は非武装地帯とされた。

 36年7月、スペイン内戦が勃発。ヒトラー総統はフランコ将軍を中心とした反政府組織を支援した。

ユダヤ人の迫害

 35年9月15日 ニュルンベルク法が制定された。これにより、ユダヤ人が市民権を喪失。公職を追放された。多くのユダヤ人はユダヤ人居住区へ移住した。

 ヒトラー総統は、アーリア人は優秀な人種としてユダヤ人を迫害した。ロシア革命では、多くのユダヤ人が参加したと宣伝した。さらに、貧富の格差の要因は、ロスチャイルド家に代表される国際ユダヤ資本であると宣伝した。

ヒトラー総統

34年8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去、ヒトラー首相が大統領を兼務。ヒトラー総統と呼ばれる。

 34年6月30日 ヒトラー首相による大粛清、前首相ら政敵が粛清される。「長いナイフの夜事件」

 34年1月16日 ポーランドと不可侵条約を締結

 33年12月1日 ナチ党と国家の一体化を進める法律が制定

国際連盟脱退

 20年代、米英日を中心に海軍の軍縮交渉が行われた。そして、30年のロンドン海軍軍縮条約で一定の成果を上げた。

 32年2月、ジュネーブで国際連盟主催のジュネーブ軍縮会議が始まった。これは、今までの会合と2つの点で異なった。1つ目は、国際連盟加盟国全体に適用される点。2つ目は、陸軍などなどすべての領域にわたる点であった。

 しかし、33年に入るとこの会議は難航する。33年1月、再軍備を主張するヒトラー政権が誕生した。そして、33年3月、満州事変に対する対応で、日本が国際連盟を脱退した。

 33年10月21日 ジュネーブ軍縮会議が決裂。ドイツが国際連盟を脱退。35年3月の再軍備宣言につながる。

国会議事堂放火事件

 33年1月、ヒトラーは首相に就任。翌2月、ヒトラーは議会を解散させた。同2月26日、プロイセン州が州の権限を国家へ移した。中央集権化が進んだ。

 そのような中、同2月27日、国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラー首相は、直ちに共産党員や社会民主党員が大量に逮捕した。さらに、ワイマール憲法で規定した基本的人権の大部分が停止された。

 翌3月5日の総選挙ではナチ党は躍進した。10日、南ドイツのバイエルン州の州政府が解体。ドイツのすべての州が国家の支持に従うようになった。

 21日、国会が開会。23日全権委任法が制定された。全権委任法とは、内閣(首相)に立法権を付与する法律である。これにより、議会は有名無実化した。4月には秘密警察ゲシュタボを結成。7月にはナチ党以外の政党が禁止された。資本家層向けの政党はそれ以前に解党していた。社会民主党と共産党がこの法律によって解党した

ヒトラー首相

ヒトラー首相誕生

 30年、ナチ党は第2党に躍進した。これを受けてヒトラーは32年4月大統領選に出馬した。第一次世界大戦の英雄ヒンデンブルク氏に敗北した。なお、この選挙で共産党も躍進した。

 ドイツの大統領の任期は7年で前回25年に大統領になったのがヒンデンブルク大統領である。

 同32年7月の議会選挙では、ナチ党がついに第一党に躍進した。ヒンデンブルク大統領はこの選挙結果を受け、翌33年1月ヒトラー首相に任命した。

 ヒトラー首相は、第1次世界大戦の賠償金の支払いを取りやめた。

議院内閣制の否定

 ワイマール憲法では、議会で首相をきめることになっていた。しかし、大統領権限で首相を決めることも可能であった。

 社会民主党が世界恐慌の対応に失敗。30年、ヒンデンブルク大統領は、大統領権限で右派政権を樹立した。

 右派政権は30年10月、議会を解散した。この選挙がナチ党が第2党に躍進した。

賠償金問題とナチ党の躍進

 29年の世界恐慌で、ドイツは賠償金の支払不能となった。31年、アメリカのフーバー大統領はフーバーモラトリアムを発表した。これは、ドイツの賠償金の支払いと英仏の国債(戦債)の支払いについて1年の猶予を持たせるというものであった。

 32年6月、フーバーモラトリアムの支払い猶予の期限が近づいた。英仏は、ローザンヌで協議を開始した。翌7月、ドイツの賠償額はヤング案の12分の1まで削減された。しかし、アメリカが国債の債権放棄を認めなかった。そのため、英仏はこの協定を批准しなかった。