90年、ドイツは大きな転換点を迎えた。88年に即位した若き皇帝ヴィルヘルム2世は、老齢の宰相ビスマルクを引退させ、独自外交を展開した。
ビスマルクの親英・親露路線から脱却。帝国主義競争を本格化させた。今回は、中国と西アジアでの展開を見ていく。
3B政策
ヴィルヘルム2世は、98年に聖地エルサレムを訪問。その帰りにイスタンブルでオスマン皇帝と会談した。この会談でバグダード鉄道の敷設権を獲得した。
これにより、ベルリンから、オーストリア経由でバルカン半島へ入り、イスタンブル(ビザンティウム)とバグダード(イラク)を経由してペルシャ湾をつなぐ大鉄道計画を発表した。これが3B政策である。
これには、2つの国が反発した。1つはバルカン半島へ関心を高めるロシアである。そして、もう1つは、インドとエジプトの間にあるバグダード(イラク)への進出を目論むイギリスであった。
中国分割
義和団事件
ドイツが敷設し山東鉄道は、黄河に平行するたちで建設された。そのため、それまで黄河を通じて中国内陸部へ物が流れていた。しかし、山東鉄道が建設されると、膠州湾から山東鉄道通じてものが流れるようになった。これにより、黄河周辺の物流業者たちの生活は困窮した。
そのような中、山東半島で白蓮教徒による反キリスト教運動が展開された。これが義和団の乱である。義和団は外国人を殺害しながら次第に勢力を伸ばし、ついに北京へ侵攻するようになった。
山東半島
ドイツは、東アジアの拠点を山東半島に置いた。
山東半島、中国北部にあり、黄河の河口付近にある半島である。北京や天津にほど近いエリアであった。塩の名産地で、塩の専売が原因で起きた9世紀の黄巣の乱はこの地から始まった。
中国との交易で有利な地域は、中国南部である。しかし、この地域は、日本、イギリス、フランスがすでに押さえていたため進出する余裕がなかった。そのため、ドイツは北部の山東半島を勢力圏とした。
山東半島には、最大の軍港威海衛があった。しかし、ここはすでにイギリスが租借していた。そのため、ドイツは膠州湾に基地(租借地)を置いた。青島ビールで有名な青島(青島)は膠州湾にある。
ドイツは、97年宣教師殺害事件の報復として、膠州湾を占領した。98年、イギリス、フランス、ロシアがそれぞれ海軍基地として租借地を清王朝に求めた。その見返りに清王朝は資金を獲得した。
これにドイツも参加した。ドイツは占領した膠州湾を租借し、さらに山東半島の鉄道敷設権を獲得した。膠州湾の青島港を整備し海軍を置いた。こうして、ドイツは山東半島を勢力圏とした。
三国干渉
日清戦争の講和条約である下関条約は、二国間で交渉された。その理由は、列強の侵略をうけないためであった。この条約の過程に欧米各国は中止していた。
三国干渉が成立すると、ロシアのニコライ2世は、同盟国のフランスとともに、下関条約への反対表明を出した。イギリスを仮想敵国としたドイツのヴィルヘルム2世もこの反対表明にさんかした。これが三国干渉である。
日本政府は、三国干渉を受けて、遼東半島を返還。その代わりに賠償金の額を増額させた。これにより、清王朝の財政はひっ迫した。そのため、資金を確保するため、列強から借款を受けざるを得なくなった。これにより、中国分割が始まった。
ちなみに、三国干渉で返還された遼東半島は、ロシアの勢力圏となった。
日清戦争
80年代以降、朝鮮王朝では反乱がひっ迫した。そのたびに日本と清王朝は軍隊を出していた。そのために日本と清王朝は、朝鮮の宗主権を争うようになった。日本も清王朝も、戦争賛成派と戦争反対派が対立していた。戦争賛成派は、朝鮮の宗主権を主張した。しかし戦争反対派は、イギリスやロシアが漁夫の利を得るとことを警戒した。
しかし、94年、日清戦争は勃発した。95年、日本が山東半島の威海衛を落とすと講和会議が始まった。会議の参加者は、いずれも戦争反対派で、清王朝代表が、李鴻章で、日本政府は伊藤博文と陸奥宗光が当たった。彼らは、戦争賛成派を納得させる条件をこの会議で獲得する必要があった。
下関条約で、日本は多額の賠償金と、領土の割譲を清王朝から受けた。日本がこの時に獲得したのが、朝鮮半島防衛のために遼東半島を、沖縄を守るために台湾と澎湖諸島をそれぞれ獲得した。遼東半島は後に清王朝へ返還されたが、台湾と澎湖諸島は第二次世界大戦まで領有し続けた。そのため、中国分割では台湾に近い福建省が勢力圏となった。
露仏同盟
80年代のヨーロッパ外交の中心は、ドイツ帝国の宰相ビスマルクであった。ビスマルク外交のポイントは、ヨーロッパの平和とフランスの孤立化にあった。
ビスマルク外交の一つの成果が、ロシアとの再保障条約である。これにより、ドイツの平和は保たれていた。しかし、ヴィルヘルム2世はオーストリア共にバルカン半島へ進出することを模索した。そのため、90年の再保障条約の更新をしなかった。
94年、ロシアは、フランスと露仏同盟を締結。これにより、ヨーロッパは、イギリス陣営、ドイツ陣営とロシア・フランス陣営の3つ巴の状況となった。
また、ロシアはフランス資本によって工業化が進んだ。その最たるものがシベリア鉄道の建設であった。
ビスマルク引退
88年ヴィルヘルム2世が即位した。90年にビスマルクを辞任させた。
その背景には、ドイツが農業国から工業国へ変化がある。建国当時、産業革命は始まっていたもののイギリス製品に太刀打ちできる工業品を作ることはできなかった。そのため、主要産業は工業ではなく農業であった。
ビスマルク時代の主要産業は、イギリスなどの工業国向けの農産物の輸出であった。そのため海外植民地よりもイギリスとの外交関係が重要であった。
しかし、80年代後半に入ると、地下資源の豊富さを利用してドイツと太刀打ちできる工業品が作れるようになった。そのため主要産業がアジア地域への工業品の販売に代わった。そのため、イギリスとの植民地戦争に参加することになった。