世界大恐慌
29年、ヤング案でドイツの賠償金の支払いは緩和された。それでも負担は大きなものであった。そのため、賠償金の支払いの原資はアメリカからの借り入れに依存していた。
29年10月、アメリカで世界恐慌が発生。アメリカはドイツへの資金提供ができなくなった。これにより、ドイツはすぐに支払い不能になった。
賠償金問題
巨額の賠償金
21年4月、ドイツの賠償金の金額は1320億金マルク(440億ドル)と決定された。当時のドイツ政府は300億金マルクを想定していた。イギリスの経済学者ケインズも、ドイツの支払い能力は400億金マルクと想定した。当然、ドイツの賠償金の支払いは滞った。
ルール占領
23年1月、フランスのボワンカレ右派内閣は支払い遅延を理由にルール工業地帯を占領した。
ドイツ労働者は、ストライキを決行。ドイツはハイパーインフレーションが発生した。
24年ドーズ案
ドイツのストライキでデフォルト(国家破産)が表面化してきた。実際にこれが起きるとイギリスとフランスは賠償金の返還は不可能になり、アメリカへの返済も危うくなる可能性があった。
そのため、アメリカが仲介に入った。これがドーズ案である。ドーズ案では、当面4年間の支払額を減額するという政策である。各国はそれを受け入れた。
フランスは、ドーズ案に基づいて、ルールから撤兵した。
しかし、賠償金の総額に変更はなく、問題の先送りに過ぎなかった。
29年 ヤング案
29年、ドーズ案で先送りされた賠償金問題にメスを入れた。それがヤング案である。国際連盟にて、賠償金の減額と支払機関の延長が決定した。
ワイマール憲法
19年1月、ベルリンでドイツ共産党が反乱(スパルタクス団の放棄)。しかし、これは鎮圧された。この直後、総選挙を実施。社会民主党が第1党となった。翌2月、社会民主党のエーベルトが臨時大統領についた。7月に新憲法を制定した。これがワイマール憲法である。
30年代にナチ党が躍進するまで、社会民主党の政権が続いた。25年、社会民主党エーベルト大統領がなくなる。ワイマール憲法に基づいて大統領選挙を実施。元軍人のヒンデンブルク大統領が誕生した。
ワイマール憲法は、当時としてはかなり民主的な憲法となった。その特性は、以下のものがある。
- 男女普通選挙の導入
- 議院内閣制
- 直接選挙による大統領制
- 基本的人権の尊重
- ストライキ権などの社会権の導入