前回の復習 4世紀のイタリア
前回の4世紀編から、ローマ帝国編に入っております。前回はコンスタンティヌス大帝からローマ帝国の東西分裂までを見ていきました。
今回は、軍人皇帝時代と四帝分治制を見ていきます。コンスタンティヌス大帝は、四帝分治制で西の副帝であった、
ディオクレティアヌス帝
最後のキリスト教大迫害
03年、ディオクレティアヌス帝は専制君主制を強化するためにキリスト教の大迫害を実施。
- ローマの神々の祭典にキリスト教徒を強制参加
- 教会財産の没収
- キリスト教関連の書物の没収(焚書)
テトラルキア(四帝分治制)
テトラルキアとは、ローマ帝国を4分割してそれぞれに皇帝をおいた統治スタイルである。
93年、ディオクレティアヌス帝はテトラルキアを実施。ローマを離れ二コメディア(トルコ)に拠点を移した。
皇帝といっても、実質は軍事司令官の立場である。ディオクレティアヌス帝はササン朝ペルシャとの戦いに集中するために、中東以外の地域の防衛をほかの皇帝に任せた。
正帝はアウグストゥスと呼ばれ、副帝はカエサルと呼ばれた。
西の副帝 | 西の正帝 | 東の副帝 | 東の正帝 (ディオクレ ティアヌス帝) | |
都 | トリーア (ドイツ西部) | ミラノ (北イタリア) | ベオグラード (セルビア) | 二コメディア (トルコ) |
領域 | フランス イングランド | イタリア スペイン 北アフリカ | バルカン半島 | トルコ 中東 エジプト |
仮想敵 | ゲルマン人 (フランク族) ケルト人 | ゲルマン人(ゴート族) | ササン朝ペルシャ |
ローマは、西の正帝の都にはならなかった。これにより、ローマの中心は、ローマからトルコ(二コメディア→コンスタンチノーブル)に遷った。
305年、ディオクレティアヌス帝は西の正帝とともに引退。力副帝が正帝に昇進した。その後、兵隊たちは、東の正帝ではなく、それぞれの皇帝に追随するようになり、再び内乱の時代になった。これを治めたのがコンスタンティヌス大帝である。
専制君主制
ディオクレティアヌス帝は、84年に皇帝に即位。オリエント(古代中東)の専制君主制を導入し、軍人皇帝時代の混乱を収拾した。
軍人皇帝
軍人皇帝時代とは
軍人皇帝時代は、35年から85年(ディオクラティヌス帝の即位)までの時代を指す。軍人出身の短命皇帝が相次いだ時代である。
この時代、軍隊が擁立し、軍隊の意に反すれば暗殺などによりすぐに退位させられた。
不安定な政治や経済の停滞から、「3世紀の危機」と呼ばれた。
どこと戦争をしていたの?
では、当時のローマ帝国はどこと戦っていたのであろうか。
1つは、ササン朝ペルシアである。
もう一つは、ゲルマン民族などの北方の先住民である。
皇帝が捕虜になる
ササン朝ペルシアとの戦いは劣勢になっていた。皇帝の中には、ササン朝の捕虜になる大敗を喫したものもいた。