4世紀のイタリア 専制君主制の時代

前回の復習 5世紀のイタリア

 5世紀、イタリアは戦乱の時代の始まりであった。ゲルマン民族など異民族が侵入。西ローマ帝国は滅亡。以後、ゲルマン民族の東ゴート王国が成立した。

 今回から。ローマ帝国編に入っていきます。初回は専制君主制の時代である。

デオドシウス帝

デオドシウス帝とは、

 デオドシウス帝は、4世紀末のローマ帝国の皇帝である。当時の都は、コンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)であった。

東西分裂

 95年、デオドシウス帝が崩御。ローマ帝国は2人の息子に分割された。兄は、コンスタンチノーブルに残り、東ローマ皇帝になった。弟は、ローマへ渡り、西ローマ皇帝になった。西ローマ皇帝は、ただ、これはディオクレティアヌス帝の四分割統治を模したもので、ローマ帝国の分裂を意味したものではなかった。

 西ローマ皇帝は、それまでローマにいったことがなかった。当時16歳の皇帝は、ローマでの生活は苦慮した。そこで早々に遷都。北イタリアのミラノに拠点を置いた。彼を支えたのは、ゲルマン人(ヴァンダル人)の傭兵隊長スティリコ将軍であった。

 西ローマ帝国は、スティリコ将軍を中心としたゲルマン人派と反ゲルマン人派で対立するようになった。

キリスト教国教化

 デオドシウス帝の時代のキリスト教は、アリウス派の復活などによって混乱していた。そのため、デオドシウス帝は81年コンスタンチノーブルで公会議を開催。アタナシウス派の正統性を再確認した。

 92年、異教徒禁止令を出し、キリスト教以外の宗教を禁止した。これにより、ギリシャの神々の祭典であった古代オリンピックは開催されなくなった。

ゲルマン民族の侵入

 では、デオドシウス帝はキリスト教の国教化に踏み切ったのであろうか。この時代は混乱の時代であったからである。これがゲルマン民族の侵入である。

 70年代、東ヨーロッパにアジア系騎馬民族フン族が侵入。これを機にゲルマン民族の大移動が始まった。それまで、ローマ帝国とゲルマン民族の国境であったライン川とドナウ川を越えた。

 75年、西ゴート族がローマ帝国へ侵入(ドナウ川を渡河)。ラテン人は、西ゴート族を差別した。78年、西ゴート族が反乱。これがアドリアノーブルの戦いである。この戦いでローマ帝国軍は大敗。前ローマ皇帝が戦死。この時に即位したのがデオドシウス帝である。

 ラテン人は、ニケーア公会議で正統とされたアタナシウス派を信仰していた。一方で、アドリアノーブルの戦いで勝利した西ゴート族はアリウス派を信仰していた。そのため、アリウス派への配慮が必要になった。そこで開かれたのが81年のコンスタンチノーブル公会議であった。ここで、再びアタナシウス派の正統性が示された。しかし、西ゴート族はアリウス派を信仰し続けた。

 82年、ローマ帝国と西ゴート族の講和が成立。西ゴート族は、ドナウ川の南側に居住地域を獲得した。

ユリアヌス帝

ササン朝ペルシャとの戦いで戦死

 ユリアヌス帝は、61年に単独皇帝になった。しかし、63年、ササン朝ペルシャとの戦いで戦死。在位はわずか3年であった。

背教者として

 ユリアヌス帝は、宗教政策を転換した。キリスト教の公認を取り消し、キリスト教への援助を停止した。

 ユリアヌス帝は、キリスト教徒の迫害をしたわけではないが、キリスト教の援助を停止した。そのため、背教者と呼ばれるようになった。

 でな、なぜユリアヌス帝はキリスト教の援助を停止したのであろうか。理由は3つある。1つ目は、聖職者の横暴である。コンスタンチノーブルでは、キリスト教徒が政治の中心に座り、完全に腐敗していた。そのため、政界からのキリスト教徒の一掃を画策していた。

 2つ目は、異教徒の支持である。ユリアヌス帝の支持者はガリアなど西ローマの人々である。彼らはアリウス派信者やミトラ教信者を信じる者も多かった。そのため、ユリアヌス帝は彼らに宗教の自由を与えた。ユリアヌス帝の時代に、停止されていたユダヤ教の神殿の再建が開始された。

 3つは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興である。この時代、教育界はキリスト教徒が占めていた。そのため、キリスト教以外の文献を学んでいない人が多かった。これにより、ギリシャ・ローマの古典文学は廃れた。さらに、ギリシャローマ時代に神殿は荒廃していった。

一方で、ユリアヌス帝は幽閉時代。アリウス派の神父のもとでギリシャローマ時代の哲学を学んだ。そのため、キリスト教優遇政策に疑問を感じていた。

単独皇帝へ

 ユリアヌス帝はもともとは、西の副帝としてゲルマン民族との戦いに従事していた。そのような中、皇帝(コンスタンティヌス2世)から無謀な要求が来た。兵隊の半数近くをササン朝ペルシャとの戦いによこせというものである。

 これに、ゲルマン戦線の兵隊は激怒。この時の兵隊は、地元ガリア(フランス)出身者がほとんどである。遠く離れた西アジアへ戦争へ行くのを嫌がった。

 ユリアヌス帝は兵士に担がれる形で首都コンスタンチノーブルへ入城。61年、ユリアヌス帝は正帝についた。

パリ(ガリア)時代

 成人したユリアヌス氏は、55年に西の副帝になった。西の副帝はガリア(フランス)の防衛である。具体的にはゲルマン民族(フランク族))からガリア(フランス)を守るのが仕事である。

 ガリアの軍隊は、現地の人々で構成されていた。当時のフランス(ガリア)は、ローマやコンスタンチノーブルから遠く、伊那赤であった。田舎者の荒くれ物の集団であった。

命の危機にあった幼少期と青年期

 ユリアヌス帝は、コンスタンティヌス大帝の甥である。37年、コンスタンティヌス大帝が崩御。息子のコンスタンティヌス2世が即位した。コンスタンティヌス2世は、皇帝を脅かす叔父たちを次々処刑した。その中には、ユリアヌス帝の父もいた。

 幼少期に父を失ったユリアヌス氏は、兄とともに幽閉生活を過ごしていた。この時に学んだのがギリシャ哲学であった。

 兄は、その後、東の副帝になったもののその後処刑された。

コンスタンティヌス大帝

経済政策 コロヌス公認

 32年、コロヌスの土地緊縛令が制定。コロヌスが合法とされた。

 また、ソリドゥス金貨の鋳造も行われた。

コンスタンティノーブルの建設

 24年、アドリアノーブルの戦いに勝利したコンスタンティヌス帝は東ローマ(バルカン半島とトルコ)に拠点を移した。その際に新都を建設した。コンスタンティノーブルである。後のイスタンブールである。

 それまで、東ローマの都は、トルコの二コメディアであった。

ニケーア公会議

 キリスト教が普及すると、キリスト教内の問題が政治問題まで発展するようになった。

エジプトのアレキサンドリア教会で教義をめぐる対立が起きていた。アリウス派とアタナシウス派の対立である。コンスタンティヌス大帝は、25年にニケーア公会議を開催。2か月の論争の末、アタナシウス派の正統とした。

 アリウス派の人々は、北方にわたり、ゲルマン民族へ布教を行っていった。

 ニケーアの地は、地図で場所を問われることが多い。ニケーア公会議は東西統一後に実施されている。そのため、東ローマ帝国(トルコ)のニケーアで開催されている。一方で、ミラノ勅令は、西の正帝時代なので西ローマ帝国(イタリア)で出されている。

ローマ帝国再統一

 24年、アドリアノーブルの戦いで東西のローマ皇帝が激突。西ローマ皇帝であったコンスタンティヌス大帝が勝利。ローマ帝国は再統一された。

 なお、アドリアノーブルはバルカン半島西部(旧ユーゴ)のとしである。2世紀に五賢帝のハドリアヌス帝によって建設された。

キリスト教公認

 13年、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令を発表。キリスト教を公認した。

 では、なぜコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したのであろうか。それはこの時代に勢力を拡大させたキリスト教徒を味方につけたかったためである。当時の西ローマは正帝の後継者争いが展開されていた。

 同じ年、コンスタンティヌス帝は西の正帝に即位している。

 なお、ローマ帝国を4分割した際に、西ローマの都はローマではなく、北イタリアのミラノに置かれた。

西の副帝として

 06年、西の正帝が即位すると後継者争いが勃発した。コンスタンティヌスとマクセンティウス、リキニウスである。12年にコンスタンティヌスは、マクセンティウスを破る。ローマにあるコンスタンティヌスの凱旋門はこの時の戦いの凱旋のために建てられた。

 翌13年、リキニウスとコンスタンティヌスが同盟。リキニウスは東の正帝、コンスタンティヌスは西の正帝となった。

ローマ帝国を4分割

 3世紀末、ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国を4分割にし、それぞれの地で異民族と戦う体制を構築した。

 05年、ディオクレティアヌス帝と西の正帝が退位。両国の副帝が正帝に昇格した。この時に西の正帝になったのがコンスタンティヌス大帝の父である。コンスタンティヌス大帝はこの時に西の副帝になった。この翌年(06年)に父である西の正帝が崩御。西の正帝の後継者をめぐり内戦に入った。