6世紀のイタリア ユスティアヌス帝と修道院運動

前回の復習 7世紀のイタリア

 7世紀のイタリアは、ランゴバルド王国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で二分されていた。その後、フランク王国がイタリアへ侵攻。ピピン寄進でフランク王国とローマ教皇は良好な関係に。

 今回のテーマは、ランゴバルド王国とビザンツ帝国である。

ローマ教皇

グレゴリウス1世即位

 90年、ベネディクス派のグレゴリウス1世が即位。修道院運動が加速した。

 グレゴリウス1世は、ローマの名門貴族の家に生まれた。東ローマ帝国下のローマで、ローマ市長官を務めた。父が亡くなると、自宅をベネディクト派の修道院にした。

 6世紀前半、ユスティアヌス帝は、ハギア=ソフィア聖堂を建設。キリスト教の中心は、ローマ教会からコンスタンチノーブル教会(イスタンブル)へ移った。そのため、ローマ教会はキリスト教の権威を取り戻すために、新たな信者獲得に動いた。

 信者の獲得のために、ローマ教会はゲルマン民族への布教に努めた。当時、ゲルマン民族の信仰は、ゴード族やランゴバルド族などの南部のゲルマン民族は異端とされたアリウス派を信仰し、フランク族などの北部のゲルマン民族は、森の精霊などの自然崇拝を行っていた。

 ゲルマン民族への布教を主として行ったのは、ベネディクト派の修道士たちであった。この布教活動によって、ベネディクト派の修道士たちはローマ教会内で出世。90年のグレゴリウス1世の教皇に即位につながる。

ランゴバルド王国の独立

 68年、ランゴバルド族が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から独立。ランゴバルド王国を建国した。

 ランゴバルド族は、ゲルマン民族の1つである。一般的にランゴバルド族のイタリア侵入でゲルマン民族の大移動は終わったとされている。宗教では、南部のゲルマン民族に広く浸透していたアリウス派を信仰していた。

 ランゴバルド族は、東ローマ帝国とともに6世紀の前半にイタリアへ侵入。当初は東ローマ帝国の支配下にあった。

 65年、東ローマ帝国でユスティアヌス帝が崩御。次の皇帝は、68年にランゴバルド族の独立を承認。ランゴバルド王国が成立した。

ビザンツ帝国の侵攻

 26年、東ゴード王国のテオドリック大王が崩御。

 27年、ユスティアヌス帝が東ローマ皇帝に即位。東ローマ帝国は地中海再統一事業を開始する。

 33年、北アフリカのヴァンダル王国を征服。

 34年、ローマ法大全が完成。

 35年、イタリアの東ゴード王国へ侵攻。イタリア中西部のラヴェンナに総督府を置いた。ラヴェンナに、サンヴィターレ聖堂を建立した。

 37年、焼失したコンスタンチノーブルのハギア=ソフィア大聖堂を再建。キリスト教の中心がローマからコンスタンチノーブルへ移ったことが明確になる。ローマの貴族はこれに危機感を感じた。ローマ教会は。ベネディクス派の修道士を使って、ゲルマン民族への布教を開始する。

 55年、東ゴード王国を滅亡。イタリアは東ローマ帝国領になる。

 65年、ユスティアヌス帝が崩御。

ベネディクス修道院

 29年、ヴェネディクトゥスがローマ近郊の山中に修道院を建設。モンテ=カシノ修道院である。

 清貧・純潔・服従の厳しい戒律を修道士に課し、「祈り、働け」をモットーにした。これにより、労働は奴隷の仕事という古代の労働観はなくなった。

 81年、モンテ=カシノ修道院はランゴバルド王国によって破壊された。そのため、ローマの貴族のグレゴリウス1世は自宅を修道院に改造した。

 この頃から、ベネディクト派の修道士たちは、ゲルマン民族への布教活動を本格化させた。

 8世紀、モンテ=カシノ修道院は政権された。

東ゴード王国

 東ゴード王国は、5世紀末にイタリアに建国した国である。建国者は、テオドリック大王である。建国を支援したのは、東ローマ帝国である。そのため、コンスタンチノーブルに近い、中西部の港町ラヴェンナに都がおかれた。その領域は、東は南フランス。西はバルカン半島東部まで広がっていた。

 宗教は、異端とされているキリスト教アリウス派を信仰している。そのため、ローマ教会とは結ぶことななかった。しかし、ローマの文化は尊重。ローマ人にはローマ法、ゲルマン人にはゲルマン法をそれぞれ適用した。

 26年、建国者テオドリック大王が崩御。33年、ユスティアヌス帝がイタリアへ侵攻した。これがゴード戦争の始まりである。