8世紀のイタリア ピピンの寄進

前回の復習 9世紀のイタリア

 9世紀のヨーロッパは、分裂の時代である。ヨーロッパ全土を支配したフランク帝国が分裂。ドイツとフランスが誕生した。一方で、イタリアは長期にわたる分裂状態が続く。

 さて、今回はフランク王国がイタリアへ進出していく過程を見ていきます。

カール大帝の戴冠式

 800年、カール大帝の戴冠式がローマで行われた。カール大帝はフランク王国の国王である。当時のフランク王国はヨーロッパの大部分を支配した大国であった。

 カールの戴冠を行ったのは、ローマ教皇レオ3世であった。ローマ教皇レオ3世は、新しい皇帝を必要としていた。それは、コンスタンチノーブル教会との対立が背景にあった。

 8世紀末になると、コンスタンチノーブル教会を支援するビザンツ帝国の干渉が強まっていた。99年には、教皇レオ3世自身もビザンツ帝国の与する一派の襲撃を受けている。

ランゴバルド王国の滅亡

 では、なぜ教皇レオ3世はカール国王を皇帝に選んだのであろうか。

 74年、カール大帝は北イタリアへ侵攻。イタリア北西部のランゴバルド王国を滅亡させた。これにより、北イタリアはフランク王国領になった。

 なお、イタリア北西部は現在もロンバルディア地方と呼ばれている。

ピピンの寄進

 ランゴバルド王国は、イタリア全土を征服しようとしていた。ローマ教皇はこれを脅威に感じていた。そのため、ローマ教皇は新たなパートナーを求めた。それが、フランク王国の宮宰であったカロリング家のピピン氏であった。

 宮宰ピピン氏は、ローマ教皇の要請に応じ、イタリアへ侵攻。ランゴバルド王国からラヴェンナ地方を奪回した。ピピン氏はラヴェンナ地方をローマ教皇へ寄進した。見返りに、ローマ教皇はピピン氏をフランク国王に認めた。

 ラヴェンナ地方は、イタリア西部の都市である。ビザンツ帝国の総督府がおかれていたため、8世紀では、イタリア最大の都市であった。

 ピピンの寄進によって、教皇領は中部イタリア全域に広がった。一方で、ピピン氏はローマ教皇領へ侵攻しない恭順さも示した。

イスラム勢力の侵入

アッバース革命

 8世紀は、イスラム教がヨーロッパへの進出を開始した世紀であった。それを推し進めていたのがウマイヤ朝であった。

 50年、中東でアッバース革命が起こる。これにより、ウマイヤ朝が崩壊。イスラム軍の侵攻がここで止まった。

 56年、ウマイヤ朝の残党がイベリア半島(スペイン)に後ウマイヤ朝を建国した。このあと15世紀まで、イベリア半島では、キリスト教とイスラム教の内戦が断続的に続いていく。

カール=マルテル(フランク王国)

 32年、イスラム軍はフランス(フランク王国)へ侵入した。しかし、宮宰カール=マルテルの活躍でイスラム軍は撃退された。この戦いをトゥール=ポワティエ間の戦いという。

カール=マルテルは、カロリング家の人で、のちの国王ピピン氏の父である。

西ゴード王国の滅亡(スペイン)

 11年、イベリア半島(現在のスペイン)にあった西ゴード王国が滅亡。

聖像禁止令と東西教会の対立

 一方、トルコにあるビザンツ帝国もイスラム軍の侵攻に悩まされた。

 ビザンツ皇帝は、聖像禁止令を発布。これに、ローマ教会は反発した。なぜなら、ローマ教会は、聖書の読めないゲルマン民族への布教を絵を使って説明していたからである。

ランゴバルド王国

 8世紀初頭、イタリアは北のランゴバルド王国と南のビザンツ帝国が勢力争いを行っていた。

 ランゴバルド族は、東ローマ帝国と同盟を結んでイタリアへ移住した。彼らは、ほかのゲルマン民族と同じアリウス派を信仰していた。そのため、アタナシウス派の東ローマ帝国では冷遇されていた。