15世紀のイタリア コロンブスとメディチ家

前回の復習 16世紀前半のイタリア

 16世紀のイタリアのテーマは、宗教改革とルネサンスである。前回は、グレゴリウス暦を作ったグレゴリウス13世について見ていきました。

コロンブス

教皇子午線

 コロンブスがヨーロッパに帰還。この頃から、スペインとポルトガルの大西洋の勢力圏争いが起こる。この仲介を教皇に頼んだ。

 当時の教皇アレクサンドル6世は、フランスを撤退された後で絶大の権力を持っていた。

 93年、教皇子午線。94年にトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルを和解させた。

イタリア出身のコロンブス

 コロンブスは、スペインの支援で92年に大西洋を始めて横断した。

天文学者トスカネリ

 トスカネリは、イタリア中部のフェレンチェの天文学者。古代プトレマイオスの地球球体説を研究。大西洋を渡れば簡単にアジアに行けると説いた。(当時はアメリカ大陸の存在を知らなかった。)若きコロンブスもトスカネリに地球球体説を学んだ。

ジェノヴァの没落

 ジェノヴァは、イタリア北西部の港町を中心とした都市共和国である。13世紀の東方貿易の時代に大いに栄えた。

 しかし、14世紀にヴェネツィアに敗北。地中海の交易から撤退。フランスやミラノの影響をうけるようになった。そして多くの商人がジェノヴァからスペインやポルトガルに拠点を置くようになった。コロンブスもその一人であった。

 その後、ジェノヴァは、18世紀まで存続。18世紀末

、ナポレオンによって滅ぼされた。その後、ウィーン会議でサルディーニャ王国に併合される。

教皇アレグサンデル6世とイタリア戦争

スペインと南イタリア

 35年、ナポリ王国を統治していたフランス貴族アンジュー家が断絶。スペインのアラゴン国王がこの地位を継承した。これにより、アラゴン国王は、シチリア王国とナポリ王国を支配した。

 79年、アラゴン王国は、カスティリャ王国と合同。スペイン王国が成立。

 80年、オスマン帝国が侵攻。南イタリアの一部が一時占領される。

イタリア戦争の始まり

 94年、スペイン国王でアラゴン家のフェルディナンド1世が死亡。

 フランス国王のシャルル8世がナポリ王国の王位継承を主張。教皇アレクサンドル6世に承認を求めた。しかし、教皇アレクサンドル1世はこれを拒否した。

 シャルル9世は、ローマへ進軍した。

フィレンツェ占領

 92年、ローマの北にあるフィレンツェではメディチ家当主のロレンツォ=デ=メディチが死去。

 94年、フランス軍(シャルル8世)がフィレンツェを占領。メディチ家を追放した。

 メディチ家が追放されると、共和政へ移行した。この時、フィレンツェを統治したのがキリスト教ドミニコ会の修道士であるサヴォナローラ氏であった。サヴォナローラ氏は、質素倹約を重んじ、ルネサンスの華美な文化を否定。メディチ家の独裁とローマ教皇の腐敗に反発していた。

ナポリ王国占領

 フランス軍(シャルル8世)はローマを経て、95年2月、ナポリ王国を占領した。

 北イタリアの都市共和国は、教皇派とフランス国王派に分かれた。フランス国王派の代表格はミラノであった。

教皇の反撃

 教皇アレクサドル6世は反撃のため、ヨーロッパ各国に支援を求めた。スペイン新国王のフィルディナント5世や神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世がこれに応じた。95年3月に神聖同盟が成立した。

 95年7月、フランス国王シャルル8世は、ナポリ王国をあきらめ、フランスへ帰国した。

フィレンチェとサヴォナローラ

 シャルル8世がフランスへ帰国。イタリアに平和が訪れた。

 フィレンチェでは、サヴォナローラの厳格の神権政治に対して不満が高まっていた。教皇アレクサンドル6世は、サヴォナローラを異端として火あぶりの刑に処した。

 その後、フィレンチェは、復権を目指すメディチ家と共和政を維持したい勢力で対立するようになった。

 共和制のフィレンツェで活躍しのが、外交官のマキャベリと芸術家のミケランジェロであった。

教皇クレメンス3世

メディチ家の支配

 フィレンツェは、イタリア中部の西側にある国である。ローマの少し北にある。このフィレンチェは都市共和国として成立した。

 15世紀半ば、フィレンツェの要職はメディチ家で世襲されるようになる。

 さらに、メディチ家は、芸術家の支援も行った。これがイタリア=ルネサンスの始まりである。ボッティチェリやミケランジェロ、レオナルドダヴィンチがその一例である。

コジモの執政

 コジモはメディチ家に生まれる。コジモの父は、14世紀末にフィレンツェで銀行業を始め、成功する。その最大の顧客がローマ教皇である。メディチ家は教皇庁の徴税事務や資金輸送を担うようになった。

 コジモは、資本税を導入。大商人の反発を受けたが、下層市民から大きな支持を受けた。

イタリア=ルネサンスの始まり

 53年、オスマン帝国の侵攻で、ビザンツ帝国が滅亡した。コンスタンチノーブルの学者や芸術家はヨーロッパ各地へ亡命した。

 コジモ氏は、亡命した学者からギリシャ哲学を学ぶ。59年、コジモ氏はプラトン=アカデミーを建設した。

キリスト教

コンスタンツ公会議

 14年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの要請で公会議を招集した。

 イタリアのローマと南フランスのアヴィニョンに分裂していた教皇庁をローマに統一した。大シスマの終了である。

 チェコ(ボヘミア)の神学者フスやイングランドの神学者のウィクリフを異端とし、神学者フスを火あぶりの刑に処した。

ピサ公会議

 09年、イタリアのピサで公会議を開催。大シスマを解決する会議を行った。新教皇をたて、解決しようとした。しかし、2人の教皇が反発。教皇が3人立つさらに混乱した状態人なった。

フィレンチェがピサの占領

 ピサは、フィレンチェと同じ、中部イタリアのトスカーナ地方の都市である。

 11世紀に設立されたピサ大聖堂が名所で、ピサの斜塔がある。

 06年、フィレンチェはピサを占領。

 16世紀後半に、天文学者ガリレオガリレイが生まれる。

スペインのナポリ王国支配

 南イタリアには、両シチリア王国が存在する。この王国は、シチリア島のシチリア王国と半島部のナポリ王国で構成されていた。

 13世紀半ば、両シチリア王国は、フランス貴族のアンジュー伯が支配した。13世紀後半にシチリアの晩鐘事件が発生。シチリア島は独立を果たし、その後アラゴン王国に併合された。これにより、シチリア島はアラゴン王国、半島部はアンジュー伯が故国王を務めるナポリ王国になった。

 35年、アンジュー伯家が断絶。アラゴン家がナポリ国王を継承。南イタリアは、アラゴン家の両シチリア王国として復活した、

 アラゴン王国は、カスティリャ王国と合同し、スペイン王国になる。