16世紀前半のイタリア イタリア戦争で灰になるローマ

前回の復習 16世紀後半のイタリア

 16世紀のイタリアのテーマは、宗教改革とルネサンスである。前回は、グレゴリウス暦を作ったグレゴリウス13世について見ていきました。

 今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。

ローマ教皇

強硬派のパウルス3世

トリエント公会議

 トリエント公会議は、皇帝カール5世に要請により、教皇パウルス3世が45年に招集した会議である。

 公会議の開催地であるトリエントは、北イタリアの都市で、19世紀から20世紀にかけて未回収のイタリアの一つであった南チロル地方にある。

 公会議とは、もともとキリスト教の教義を決定する最高会議で、ローマ皇帝が主催した。しかし、11世紀にキリスト教が分裂。それ以降は、ローマ=カトリックの協議を決定する会議に代わり、神聖ローマ皇帝の要請に基づいてローマ教皇が招集する用意なった。

 トリエント公会議の目的は、神聖ローマ帝国で起きている宗教戦争になった。この会議には、ルター氏が参加する予定であったが、これは実現しなかった。この会議の期間中に亡くなった。

 皇帝カール5世もこの期間中に引退。皇帝フィルディナント1世がこれを引き継ぎ、アウクスブルクの和議が結ばれた。一方で、トリエント公会議ではプロテスタント(ルター派、カルヴァン派など)と徹底抗戦する構えを見せた。

宗教裁判所

 パウルス3世は、42年ローマに宗教裁判所(異端審問所)を設置した。

宗教裁判所は、13世紀から各地で常設されるようになった。15世紀のスペインでは、イスラム教徒やユダヤ教徒の迫害に使われた。

 パウルス3世は、この宗教裁判所を通じて、教会改革を断行した。そのため、強硬派の教皇といわれるようになった。

イエズス会の公認

 イエズス会は、34年に成立した修道会である。対抗宗教改革の代表的な組織の一つである。イエズス会は主導委員という拠点を持たない組織であった。主要なメンバーはスペイン人で構成された。創設者もスペイン人のロヨラ氏である。

 イエズス会は、当初ルター派の多いドイツ(神聖ローマ帝国)やカルヴァン派が多いスペイン領オランダで布教を行った。その後、アジア各地で布教を行った。中国に渡ったマテオ=リッチ氏や日本で布教したフランシスコ=ザビエルもイエズス会の会員である。

 40年、教皇パウルス3世は、イエズス会を公認した。教皇パウルス3世は、宗教改革に熱心であった。イエズス会の公認もその一環であった。

イギリス国教会

 このころ、イングランドでも宗教改革の動きがあった。その発端はヘンリ8世の離婚問題であった。

 イングランド国王ヘンリ8世は、離婚をしようとしていた。しかし、前教皇クレメンス7世は、これを拒否。国王ヘンリ8世は、議会を招集。離婚の合法化に向けての準備を始めた。

 33年、教皇パウルス3世はイングランド国王ヘンリ8世を破門した。当時、教皇とイングランド国王は離婚問題で対立していた。

 翌34年、国王ヘンリ8世は、イギリス国教会を設立。カトリック強国からプロテスタントの国に変わった。イングランドは、ここから絶対王政へ向う。

ミケランジェロの最後の審判

 ミケランジェロは、15世紀のフィレンチェにうまれた芸術家である。33年、前教皇クレメンス7世はミケランジェロに最後の審判の作成を依頼。ミケランジェロは、フィレンチェからとーまへ居を移した。41年、最後の審判は完成した。

 これにより、ルネサンスの舞台はフィレンチェからローマに移った。

 パウルス3世は、サンピエトロ大聖堂の大改修をミケランジェロに依頼した。

 ちなみに、ミケランジェロは、彫刻家としてスターとした。デビュー作はピエタであり、その後、有名なダヴィデ像を発表した。

 有名なパトロンである教皇ユリウス2世の目にとまり、その後多くの教会で壁画を描いた。

即位の経緯

 34年、ローマ教皇クレメンス7世が亡くなる。そのあとを継いだのがパウルス3世である。そのバックには、神聖ローマ皇帝カール5世がいた。

悲劇のクレメンス7世

メディチ家出身の教皇

 クレメンス7世は、メディチ家出身のローマ教皇である。

 メディチ家は、イタリア中部のフィレンチェの富豪である。銀行業で大成。ローマ教会への多額の寄付を行い、レオ10世とレクメンス7世の2人の教皇を輩出した。

 また、メディチ家のイタリア=ルネサンスを資金面で支えていた。

ヘンリ8世の離婚問題

 イングランド国王ヘンリ8世は、離婚の許可をもらうためローマ教皇に相談を行った。しかし、教皇クレメンス7世はこれを拒否した。

 キリスト教では、離婚は禁止されている。そのため、実際に離婚するためには、結婚をなかったことにする必要があった。

 ヘンリ8世は、、前教皇レオ10世に高く評価されていた。そのため、離婚問題も無事解決するものと思われていた。

 しかし、教皇クレメンス7世のバックには、神聖ローマ皇帝カ―ル5世がいたのである。ヘンリ8世の妻は、カール5世の伯母である。教皇クレメンス7世は、皇帝カール5世に配慮して離婚を拒否したのである。ちなみに、ヘンリ8世はこの時、皇帝カール5世と教皇クレメンス7世が和解していることを知らず、対立関係を利用しようとした。

クレメンス7世の婚姻政策

 メディチ家は、ハプスブルグ家と良好な関係を築いていた。一方で、ドイツではルター派が台頭。ドイツ農民戦争が起きていた。メディチ家はこれに不安を感じ、フランスとの同盟を検討した。

 33年、教皇クレメンス7世は、遠縁のカトリーヌをフランス皇太子アンリ氏に嫁がせた。その後、彼女はユグノー戦争に巻き込まれていく。

 カトリーヌ氏は、持参金と料理人を連れていった。これがフランス料理の始まりである。

メディチ家の復活

 皇帝カール5世と和解した教皇クレメンス7世は、メディチ家を追放したフィレンチェに侵攻。メディチ家はトスカーナ大公としてフィレンチェを治めた。この後、メディチ家は18世紀に断絶するまで続いた。

 トスカーナ大公(クレメンス7世の子)は、カール5世の娘と結婚している。

カール5世との和解

 教皇クレメンス7世は、皇帝カール5世と和解。カール5世の戴冠式がおこなわれてた。当時のローマは荒廃していたのでボローニャで戴冠式を行われた。

 また、皇帝カール5世は、フィレンツェへ侵攻。反教皇派の新政権が崩壊。教皇の息子を公爵にし、トスカーナ大公として、フィレンチェを統治した。メディチ家は18世紀に断絶するまで続く。

ローマの刧略

 25年、皇帝カール5世は、フランスのフランソワ1世にイタリア戦争で勝利。皇帝カール5世は、フランスと同盟を結んだローマ教皇へ報復した。これが27年のローマの刧略である。

 ローマ教皇とフィレンチェの貴族になった息子は、逃亡。ローマは灰になった。

イタリア戦争

 19年神聖ローマ皇帝の選挙が行われた。フランス国王フランソワ1世とスペイン国王カルロス1世が争った。カルロス1世が勝利し、カール5世として神聖ローマ皇帝になった。

 21年、フランスは、スペインとドイツに侵攻。25年のパヴィアの戦いでフランスは敗北した。

レオ10世と贖宥状

レオ10世とは

 ユリウス10世が亡くなると、フィレンチェのメディチ家が教皇を送り込んだ。レオ10世である。

ルターの95か条の論題

 神聖ローマ帝国の諸侯たちは、贖宥状の販売を認めるか悩んた。そこで相談したのが、神学者のルター氏であった。ルターは95か条の論題をはり、ルター派を建てた。

 ルター派は、贖宥状やローマ教会を否定。聖書を重視する福音主義を唱えた。

 20年、レオ10世は、ルター氏に破門状を送った。

 21年、イングランド国王ヘンリ8世は、ルターの95か条の論題に対して反論の論文を書いた。これにより、レオ10世は、信仰の擁護者と呼び、国王ヘンリ8世をたたえた。

贖宥状(免罪符)

 16世紀前半、ローマ教会は財政難にあった。芸術家へのパトロン活動やサンピエトロ大聖堂の大改修を行っていたためである。

 元商人のレオ10世は、贖宥状販売でこの財政難を打開しようとした。

サンピエトロ大聖堂

 サンピエトロ大聖堂は、バチカン市国(ローマ)にある大聖堂である。もともとは、1世紀に処刑されたペテロのはかであったが、現在はローマ=カトリックの大本山である。

ラファエロ

ルネサンスを支えいたユリウス2世

ルネサンスとは

マキャベリとフィレンチェ

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