前回の復習 17世紀後半のイタリア
16世紀から18世紀にかけて、イタリアが世界史の表舞台に出てくることはほとんどない。
前回17世紀後半編では、ヴェネツィアの歴史とヴェネツィアにも影響を与えた第2回ウィーン包囲を見ていきました。
今回は、スポットをローマ教皇に当てる。当時の問題、地動説とドイツ三十年戦争を見ていきます。
ローマ教皇
ローマ教皇とは
ローマ教皇は、ローマ教会のトップである。ローマ教会は、1世紀にローマで殉職したペテロの墓の上にある。そのため、ローマ教皇はペテロの後継者を主張している。
5世紀、レオ1世がフン族のアッティラ大王を説得。これによりローマ教皇の地位は高まった。11世紀には、今日改革を実施。神聖ローマ皇帝と叙任権闘争を展開。13世紀末のインノケンティウス3世の頃に全盛期を迎えた。しかし、十字軍に失敗。14世紀初頭にはアナーニ事件と教皇のバビロン捕囚でローマ教皇権の衰退が露呈した。
ローマ教皇領
ローマ教皇領の始まりは、8世紀のピピンの寄進である。フランク王国のピピンは、イタリアの中心都市東部のラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進した。ローマ教皇は、教会のトップであると同時に、荘園領主の立場でもあった。
ローマ教皇は、ローマ=カトリックのトップという宗教的権威の象徴である。一方で中部イタリア一帯を治める国王的側面もあった。
地動説とローマ教皇
地動説と天動説
地動説とは、現在の科学では常識であるが、地球が太陽の周りをまわっているとする説である。
一方、天動説は、地球は宇宙の中心にあり、太陽などほかの天体が地球の周りを動いているという説である。
16世紀の天文学
16世紀前半、マゼラン一行が世界一周を実現。地球が球体であることが証明された。これにより、天動説に疑問が所持始めた。
同じ頃、ポーランドの天文学者コペルニクスが地動説について研究していた。彼は生前、自分の研究を発表することはせず、死後に発表した。
ローマ教会と天動説
天動説の示す地球中心の宇宙観が、教会公認の宇宙観として定着していた。『聖書』にも太陽が動いている記述があった。そのため、天動説を否定することは、『聖書』を否定することと同義であった。
そのため、地動説は、ローマ教会だけでなく、プロテスタントのルターも否定した。
ガリレオ=ガリレイ
フィレンツェ(イタリア)の科学者ガリレオ=ガリレイはコペルニクスの地動説が正しいことを発表。2度の宗教裁判にかけられ、最終的に終身禁固刑が言い渡された。
宗教裁判と禁書目録
中世ヨーロッパでは、ローマ=カトリックの正統性をまもるために、異端審問や魔女裁判が行われていた。
16世紀の宗教改革の時代に入ると、宗教裁判が頻繁に行われた。16世紀半ばにはローマに宗教裁判所(異端審問所)が設立された。宗教裁判では、ルター派やカルヴァン派などのプロテスタントだけでなく、カトリック教会内の改革派も裁判にかけられた。
また、16世紀になると活版印刷が始まる。これにより多くの書物が発行されるようになった。その一つがルターが翻訳した聖書であった。そのため、各地の教会で禁書目録が作られるようになった。禁書目録とは、カトリック教会が、不適切とした書物のリストである。
ドイツ三十年戦争
このころ、ヨーロッパはドイツ三十年戦争の真っただ中であった。ローマ=カトリックの神聖ローマ皇帝とザクセンなどのプロテスタント系の領主たちの戦いであった。この戦争には北欧のスウェーデンやフランスも巻き込んだ大きな戦争となった。