1910年代の イタリア イタリア=トルコ戦争と WWⅠ

前回の復習 1920年代のイタリア

 1920年代のイタリア。十分な領土を獲得できなかったことから現政権への反発運動が起こった。そのような中、地位を高めていったのがファシスト党のムッソリーニであった。

 さて、1910年代のイタリアでは、第一次世界大戦とその前に起きたイタリア=トルコ戦争を見ていきます。

ムッソリーニの台頭

 19世紀後半から20世紀初頭にかけての内政大きなテーマは社会主義者への対応であった。

 当時のイタリア首相のジョリッティも、社会主義勢力のイタリア社会党に悩まされていた。そのため、当時社会党員だったムッソリーニを利用して社会主義勢力を弱体化させた。これにより、社会主義勢力は弱体化した。しかし、ムッソリーニの台頭によりイタリアはファシズム国家への道を突き進む。

第一次世界大戦

国際連盟常任理事国へ

 20年、ヴェルサイユ条約に基づいて国際連盟が発足した。常任理事国は、戦勝国のイギリス、フランス、日本とイタリアで構成された。しかし、全会一致の原則があるため、現在の常任理事国ほどの権限はなかった。そのため、30年代に日本やイタリアなどは後に脱退という選択肢をとることになる。

 国際連盟は、多くの主要国が不参加であった。アメリカは、28年の大統領選挙で政権交代。議会の批准が得られず不参加になった。そのため、その後ワシントン会議が行われることになった。ロシア革命で成立したソ連や敗戦国のドイツも成立時に不参加であった。

 国際連盟は大きな影響力を得られなかった。その理由は3つある。1つは、主要国が参加していない点である。当初は、アメリカやソ連が不参加である。30年代に入ると日本やイタリアが脱退した。2つ目は、全会一致の原則である。これにより、国際連盟は小国の意見に左右されるようになった。3つ目は武力行使規定がなかった。そのため、経済政策だけになっていた。

ヴェルサイユ条約

 19年9月の講和会議で、ドイツヴェルサイユ条約を締結した。他の敗戦国もそれぞれ講和条約を締結した。

 オーストリアは、サン=ジェルマン条約で未回収のイタリアをイタリアに割譲した。これは15年4月のロンドン秘密条約に要るものである。

 未回収のイタリアとは、アドリア海北岸のオーストリアとイタリアの係争地である。この地域はイタリア人が多く住むため、イタリアはこの地域の獲得を願っていた。しかし、オーストリアも唯一の沿岸地域のため、手放すことはできなかった。

 サン=ジェルマン条約では、未回収のイタリアの最後の地であるトリエステ南チロルを獲得した。

 トリエステは、ユーゴスラヴィア(当時はセルビア・クロアチア・スロベニア連合王国)も領有権を主張。この地を巡り、ユーゴスラビアと対立するようになる。

 一方、南チロル地方は現在もイタリア領である。しかし、ドイツ系住民が多いため、現在もイタリアとオーストリアの係争地になっている。

第一次世界大戦に勝利

 第一次世界大戦は、長い膠着状態が続いた。

 転換点は17年である。2月に日本海軍がヨーロッパ戦線に参戦。さらに、中立であったアメリカも4月に参戦。

 翌18年11月、ドイツ革命が発生。ドイツ皇帝は亡命。これにより第一次世界大戦はイギリス陣営の勝利で終結した。

イギリス陣営で参戦

 イタリアは、ドイツ・オーストリアと三国同盟を締結していた。それにもかかわらず、イタリアはイギリス陣営に寝返ったのであろうか。その理由がロンドン秘密条約である。

 ロンドン秘密条約は、15年4月にイギリスとイタリアの間で交わされた秘密条約である。イギリスは、参戦の見返りに未回収のイタリアの割譲を約束した。

 イタリアは、ロンドン秘密条約にもとづいて翌5月にイギリス陣営で参戦した。

 では、イギリスはイタリアの参戦を望んだのであろうか。それはバルカン情勢にあった。オスマン帝国はドイツ陣営で参戦。これにより、黒海と地中海は遮断された。そのため、ロシアやイギリス領エジプトは危険な状態になった。

 そのため、イギリスはバルカン半島へ派兵を決めた。そのため、バルカン半島に近いイタリアの参戦を望んでいた。

 バルカン半島の戦い(ガリポリの戦い)は、15年4月に始まった。オスマン帝国軍のムスタング=ケマルの前線でイギリス陣営は劣勢であった。さらにイギリス陣営の劣勢をみて、10月にブルガリアがドイツ陣営で参戦。12月にユーゴスラビア(セルビア・クロアチア・スロベニア連合王国)もドイツ陣営に降伏。

 翌16年1月にイギリス陣営はバルカン半島が撤兵した。

中立を保つ

 第一次世界大戦は、14年6月のサラエボ事件をきっかけに始まった。

 当時のイタリアは、ドイツと三国同盟を締結していた。そのため、ドイツ陣営で参戦する者の見られていた。しかし、フランスとの協商を口実に開戦時は中立を宣言した。

トルコ=イタリア戦争

イタリア=トルコ戦争

 オスマン帝国は、08年の青年トルコ革命で弱体化していた。その際にネックになったのがオスマン帝国と良好な関係をたもっていたドイツ帝国であった。

 11年7月に第二次モロッコ事件が起こると、これをチャンスととらえ、同11年9月、北アフリカのリビアへ侵攻した。これがイタリア=トルコ戦争である。

 翌12年に第一次バルカン戦争が勃発すると、オスマン帝国は白旗を挙げた。オスマン帝国は、イタリアにリビアを割譲した。

 これにより、イタリアは2つ目の植民地リビアを獲得した。

その後のリビア

 イタリアの植民地になったリビアでは、サヌーシー教団の抵抗運動が起きた。

 40年代の第二次世界大戦で、イタリアが敗北。イギリス・フランスの共同統治領になる。

 51年、サヌーシー教団の指導者を国王としたリビア王国が成立。

 69年、カダフィー大佐ら青年将校のクーデターでリビア共和国になる。その後、カダフィー大佐の長期独裁政権が続く。

 2011年のアラブの春で、カダフィー大佐の長期独裁政権が崩壊。現在に至る。

バルカン戦争へ

 11年9月にイタリア=トルコ戦争が勃発すると、ロシアが支援するバルカン同盟もオスマン帝国に参戦した。(第1次バルカン戦争)。イタリアとロシアを同時に敵に回すことになったオスマン帝国は白旗を挙げた。これにより、オスマン帝国はバルカン半島から完全に撤退した。

 13年に、オスマン帝国から獲得した領地をめぐり、ブルガリアがバルカン同盟から離脱。

青年トルコ革命と第二次モロッコ事件

モロッコ事件

 モロッコ事件とは19世紀初頭のドイツとフランスの対立である。モロッコはアフリカ北西部でスペインとジブラルタル海峡をはさんで向かいの国である。

 当時、フランスは、アルジェリアなどアフリカ西部に広大な植民地を持っていた。一方、ドイツ帝国はビスマルク外交の影響で植民地獲得競争に出遅れた。

 05年、フランスの同盟国のロシアが日露戦争を始めると、ドイツはモロッコに軍艦を派遣した。これが第一次モロッコ事件である。

 11年7月、モロッコで内乱が発生。ドイツは再び艦隊を派遣し、フランスを挑発した。フランスは、イギリスを使ってドイツに圧力をかけ戦争を回避。国際会議により、モロッコはフランスの保護国になった。

 このモロッコ事件でヨーロッパの主要国はモロッコ事件にかかりっきりになった。そのため、イタリア=トルコ戦争に介入することはなかった。

青年トルコ革命

 青年トルコ革命も日露戦争の影響を受けた事件である。08年