1900年代の イタリア 北部の工業化と 南部の貧困問題

前回の復習 1910年代のイタリア

 1910年代は、イタリア=トルコ戦争で2つ目の植民地リビアを獲得。第一次世界大戦で、イギリス陣営で参戦。未回収のイタリアを獲得する。

 さて、1900年代のイタリアでは、前半ではジョリッティ首相の政策で北部を工業化していく様子を、後半では南部の貧困問題を見ていきます。

1900年代のヨーロッパ

1910年代のヨーロッパ情勢

 1914年の第一次世界大戦は、イギリス陣営(三国協商)とドイツ陣営(三国同盟)との争いである。イギリス陣営には、フランスとロシアが参加。後にイタリアもイギリス陣営で賛成した。一方、ドイツ陣営は、オーストリアが参加した。

1890年代のヨーロッパ情勢

 90年代、ヨーロッパは3つのグループに分かれていた。一つ目はドイツを中心とした三国同盟である。ドイツ、オーストリア、イタリアがこの同盟に参加した。2つ目は、イギリスである。イギリスは栄光なる孤立を維持した。3つ目は露仏同盟である。ロシアとフランスの同盟である。

1900年代のヨーロッパ情勢を
見るポイント

 1890年代と1910年代の外交関係で重要の変化は2つである。一つは、イギリスと露仏同盟で結ばれた三国協商である。2つ目は、イタリアの寝返りである。この2つの点を注視して見ていきましょう。

 その転換は、すべてアジアで起こっている。一つ目は日露戦争である。日露戦争の前後で様々な外交交渉が行われていた。2つ目は、青年トルコ革命である。青年トルコ革命でオスマン帝国は衰退。多くの国がオスマン帝国領の奪い合いを開始した。これが1914年の第一次世界大戦につながる。

リビアをめぐる外交交渉

 イタリアは、10年代のイタリアトルコ戦争でリビアを獲得する。しかし、その裏では大国間での秘密外交があった。

 1878年のベルリン会議において、フランスによるチュニジアの植民地化が認められた。この時、イタリアは猛反発した。そのため、フランスとイタリアの関係は最悪になっていた。

 20世紀に入ると、状況を一変した。フランスは、オスマン帝国領のリビアの植民地化を提案。これをきっかけに02年の仏伊協商が成立した。これにより、05年の第一次モロッコ事件ではイタリアは中立の立場をとった。

 05年モロッコ事件が起こると、イタリア世論はアフリカ植民を求めるようになった。そして、08年青年トルコ革命が発生。オスマン帝国は内乱状態になった。ジョリッティ首相は戦争への準備を開始した。

 09年、イタリアとロシアが秘密裏に交渉。ラコニギ協定を締結。ロシアは、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の通行権を容認する見返りとして、リビアの植民地化を認めた。

 11年、イタリアは、リビア侵攻を開始した。三国協商(イギリス、フランス、ロシア)はこれを容認した。一方で、三国同盟のドイツ、オーストリアはこれを反対した。

 これが、14年の第一次世界大戦の構図に結び付いた。

首相ジョリッティ

主な政策

 ジョリッティ首相は、1890年代から断続的に首相を務めてきた自由党の政治家である。

 ジョリッティ首相の主な政策はミラノを中心とした北イタリアの工業化の促進であった。資本家の支持を集める一方で穏健的な労働者団体の支持を集めた。その支持者の中には、ムッソリーニもいた。

 一方で、イタリア南部の貧農に対しては無策であった。これにより、新移民を多数発生させた。

 ジョリッティ首相は、20年まで首相を務めた。しかし、20年の戦後不況で多くの支持を失い、22年のローマ進軍で退陣した。

北イタリアの工業化

 ジョリッティ首相の政策のおかげで、北イタリアの工業化は促進された。その一例は、トリノ市の自動車メーカーであるフィアット社である。

 北イタリアは、アルプス山脈を利用した水力発電で自動車産業を中心に発展した。 

南北の格差

 一方、南イタリアは貧しいままであった。多くのイタリア人は、農地を捨て労働者となった。北イタリアへ移住する者も多かったが、世界の向上となったアメリカに移住する者もいた。

イタリア社会党と労働者問題

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは社会主義政党が躍進していった。イタリアもその例外ではなかった。

 90年代に北イタリアで急速な工業化が進んだ。それにより、95年、社会主義政党のイタリア社会党が結成された。

 ジョリッティ首相は、急速な工業化を進める一方で、労働者保護政策も進めた。そのため、イタリア社会党の主流派は、ジョリッティ首相を支持した。

 しかし、一部の過激派は、政府に反発した。彼らが後にイタリア共産党を結成する。

新移民

 19世紀末になると、ヨーロッパからアメリカへの移民が旧属した。彼らは新移民と呼ばれた。この時代の移民はイタリアなどの南欧やポーランド・ロシアなどの東欧系が多かった。

 アメリカは自由の国ではあるが、その一方でプロテスタントの国でもあった。そのため、カトリック教徒のイタリア人や東方正教会のギリシャ人・ロシア人は独自のコミュニティを形成するようになった。

 新移民は熟練工であるが新移民という立場から低賃金を余儀なくされた。彼らに目を付けたのが低迷していたアメリカの民主党である。新移民の支持を集めるようになり都市部で多くの支持を得るようになった。そして、12年の大統領選挙でウィルソン大統領を誕生させた。