紀元前1世紀のイタリア カエサルと三頭政治

前回の復習 1世紀のイタリア

 古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。ローマ帝国の歴史は次のような流れになる。

  • 4世紀 専制君主制の時代
  • 3世紀 軍人皇帝の混乱期
  • 2世紀 五賢帝の全盛期
  • 1世紀 初期の帝政とネロ帝
  • 紀元前1世紀 カエサルと三頭政治の時代

 今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。

オクタニヌスは皇帝に

オクタニヌス帝

 オクタニヌス帝はいかにして、皇帝という役職を作っていったのかを見ていこう。

 31年、第2回三頭政治が決裂。エジプトを征服すると権力はオクタニヌスに集中するようになる。その後、オクタニヌスは、連続してコンスルに選ばれるようになる。

 コンスル(執政官)とは、共和政ローマの大統領のようなものである。共和政ローマ成立時からある最高権力の役職である。

 エジプトから多くの富がローマに流入。また、大きな戦乱もなくなったため軍隊を減らし軍事費の削減に成功。共和政ローマの財政は健全化した。これにより、オクタニヌスはローマ市民の支持を集めるようになった。この高い支持率を基に皇帝の地位を固めていった。

 紀元前27年、コンスルのオクタニヌスは、ローマの属州を2つのグループに分けた。イタリアやスペインなどの平和な属州とエジプトや中東などの危険な属州に分けた。危険な属州は、反乱の可能性が高い属州や異民族の侵入の可能性が高い属州である。オクタニヌスは、コンスルの職を辞任。代わりに危険な属州の統治権を得た。このとき、オクタニヌスの私兵は、共和政ローマに帰属させた。

 紀元前23年、オクタニヌスは護民官に就任。警察や裁判を取り仕切るようになる。更に権力がました。この頃に、ローマで疫病が流行。元老院への不信から、オクタニヌスの支持は更に高まった。これを利用して、オクタニヌスは皇帝権力を更に強化した。こうして、権力を持ったローマ皇帝の地位が確立された。

皇帝とは

 ローマ帝国初期の皇帝は、プリンケプス(市民の中の第一人者)の意味を持っていた。共和政時代の伝統を踏襲していた。

元老院

 元老院は、もともとは執政官の諮問機関である。政治的権力はまったくなかった。しかし、民会が事実上機能が停止。元老院が事実上の国会を意味するになった。

 元老院は、終身議員で基本的にメンバーが変わらない。議員がなくなると、執政官経験者などから新しい議員が選出される。

 元老院の主な役割は2つである。皇帝などの要職の人選と法律の決定である。

第2回三頭政治とクレオパトラの最期

エジプト征服

 第2回三頭政治が始まると、オクタニヌスはフランス(ガリア)でゲルマン諸民族と、アントニヌスは中東でパルティア(イラン)と戦うようになった。

 アントニヌスは、パルティア(イラン)に敗北。再起をはかるために、同盟国のエジプト(プトレマイオス朝)に入った。同盟強化のために、アントニヌスは、オクタニヌスの姉とわかれ、クレオパトラと結婚。ファラオの地位と美しい妻クレオパトラを獲得した。

 紀元前31年、コンスルにオクタニヌスが就任。オクタニヌスは姉を捨てたアントニヌスの追討へ向かう。アクティウムの海戦である。オクタニヌスは、アクティウムの海戦でアントニヌス・エジプト連合軍に勝利。

 翌30年、エジプトの首都アレキサンドリアを制圧。アントニヌス・クレオパトラ夫妻は自殺。プトレマイオス朝は滅亡。エジプトは共和政ローマの属州になった。

第2回三頭政治

 オクタニヌスは、カエサルの養子である。紀元前44年、独裁者カエサルが暗殺。このとき、オクタニヌスはわずか17歳であった。カエサルの葬儀を取り仕切ったのは、カエサルの右腕アントニヌス将軍である。共和政ローマはアントニヌス将軍を中心に回るものと思われた。

 ここで登場したのが元老院の重鎮たちである。元老院の重鎮たちである。重鎮たちは、アントニヌス将軍の独裁を避るために、カエサルの養子である青年オクタニヌスを担ぎ出した。ここにアントニヌスvsオクタニヌスの構図ができた。

 レピドゥスは元老院中心の政治に戻るのを阻止するため、アントニヌスとオクタニヌスを和解させた。これで成立したのが44年の第2回三頭政治である。アントニヌスは、カエサルの娘でオクタニヌスの姉を妻にとり、同盟を強化。オクタニヌスは元老院との関係を切った。

オクタニヌスアントニヌスレピドゥス
カエサルの養子カエサルの武将カエサルの武将
ヨーロッパ西部
vsゲルマン諸民族
中東
vsパルティア(イラン)
北アフリカ

カエサルの独裁

ブルータス、お前もか

 カエサルは、パルティア(イラン)の征服のため、独裁権を強めようとした。それを恐れた反対派がカエサルを暗殺した。44年3月のことである。カエサルは10年の任期の独裁官であったが、たった2年でカエサルの独裁は終焉した。

 暗殺団の中に、カエサルの腹心ブルータスもいた。「ブルータスお前もか」はこの時のセリフである。

 カエサルが暗殺されると、アントニヌスなどがブルータスら独裁反対派を一掃。アントニヌスらを中心に政治が行われるようになった。

カエサルの政治

 カエサルは、ポンペイウス派を一掃。46年10月、10年間の任期の独裁官担った。対外的にもエジプトを懐柔。ガリアも制圧。内外に敵がいない安定期に入った。

 カエサルは、独裁官になると、凱旋式を実施。エジプトからクレオパトラを呼び寄せた。

 海外に植民地を増やし、無産市民を移住。これにより、穀物配給者を大幅に減らし、財政が安定した。

 スペインなどの属州に市民権を与え、ローマの正規軍に編入。

 エジプトの天文学を利用して、ユリウス暦を制定した。

第2のアレキサンダー大王を目指して

 カエサルは、ヨーロッパの英雄アレキサンダー大王に憧れていたと思われる。

 アレキサンダー大王は、ギリシャ北部のマケドニア人であり、イランなど中東を征服した始めたのヨーロッパ人である。カエサルは、アレキサンダー大王と同様に中東おヨーロッパの統一を目指してイラン(パルティア)遠征を繰り返した。

 しかし、これに反発するものも多かった。これが、カエサルの暗殺につながる。

4皇帝時代

 ネロ帝が退位されると、多くの有力者が軍人の指示を集めて皇帝を主張するようになった。皇帝の座をめぐり戦闘が繰り返された。

 69年、元老院はユダヤ戦争の英雄ウェスパシナヌスを皇帝に指名。これによりフラウィウス朝が成立した。

第1回三頭政治

暴君と賢帝

 暴君と賢帝の違いは、元老院(国会)との関係である。

 元老院はあくまで諮問機関であるため、皇帝は元老院の承認を受けなくても政治を行うことができる。しかし、それは独裁である。そのため、皇帝たちは元老院の承認を得ることで、ローマ市民の相違で政治を行っていることを示した。

 ネロ帝などの暴君は、元老院の承認を受けずに政治を行ったり、反対派の議員を処刑して皇帝に近い議員を元老院に送り込んだ。

 一方、賢帝とは、元老院との関係が良好で、元老院の承認を得ながら政治を行うことができた皇帝をいう。

ネロ帝の自殺

 68年、元老院はネロ帝の廃位を決定。その後、ネロ帝はじさつした。これで、アウグストゥスの血を引くユリウス朝は断絶した。

 元老院は次の皇帝に、騎士階級出身のウェスパシアヌス帝を指名した。彼は、ユダヤ人の反乱の鎮圧で功績を上げた。

 では、元老院はなぜネロ帝を廃位したのであろうか。晩年のネロ帝はギリシャにいることが多かった。1つは、ユダヤ人などの反乱の鎮圧のためである。しかし、もう1つ理由があった。当時のギリシャはヨーロッパ最大の都であり、繁華街であった。ネロ帝は、ギリシャで演劇や音楽に熱中。67年には、古代オリンピックにも参加している。

キリスト教の迫害

 ネロ帝が暴君と言われる事件が、64年のローマの大火である。ローマでは、ネロ帝が新都市計画を思いついて火をつけたとの噂が立った。

 ネロ帝は、この噂を払拭するために、キリスト教徒の放火が原因と発表。キリスト教徒の大迫害を実施した。

キリスト教は、 30年ほど前30年のキリストの復活をきっかけに始まったとされる属州イェルサレムの新興宗教であった。ペテロやパウロによってローマ帝国内に広まりつつあった。

 当時のローマは、ユダヤ戦争の真っ只中にあり、属州イェルサレムからきたペテロやパウロは敵視されていた可能性もある。これがキリスト教の迫害に繋がったかは不明である。

 ペテロやパウロはネロ帝期の大迫害で殉職した。現在、ペテロの墓の上にはサン=ピエトロ大聖堂がある。

即位時の善政

 ネロ帝は、54年に皇帝に即位した。当初は、元老院との協調路線をとり、善政をひいていた。これを支えたのがストア派のセネカ氏であった。

賽は投げられた

 60年のユダヤ戦争が始まる頃から、おかしくなった。端的には女性に溺れ始めたのである。南イタリアのナポリでは連日皇帝のリサイタルが開かれた。また、ローマ市民の要求に答え、ローマでもカーニバルが開催された。これにより、ローマ帝国の財政は破綻した。

 母やセネカ氏も諌めたが、ネロ帝により殺された。そのようなさなかで起きたのがローマの大火である。ネロ帝の政策に不満を感じる一部のローマ市民は、ネロ帝の放火ではないかと推測し始める。

第1回三頭政治

カエサル vs ポンペイウス

vs 門閥派

内乱の1世紀

正規軍から私兵の時代へ

 紀元前1世紀は、戦乱が耐えない時期であった。政界では、門閥派(旧貴族派)と平民派が対立。イタリアでは、各都市がローマに対して反乱を起こしていた(同盟市戦争)。さらに奴隷の反乱(スパルタクスの反乱)も頻発した。さらに、フランス(ガリア)や中東(オリエント)では対外戦争が続いていた。そのため、紀元前1世紀は内乱の1世紀を呼ばれる。

 経済面では、格差が拡大した。相次ぐ戦争で中小の市民の農地は荒廃。霧散市民になった。一方で、富裕層は戦争で獲得した土地と奴隷でラティフンディア(奴隷制大規模農場経営)を実施。多くの富を得た。

 カエサルなどの有力政治家は、没落した市民を傭兵として雇い、傭兵軍団を結成。共和政ローマの軍隊の主力は、市民から傭兵集団に変わりつつあった。

平民派 vs 門閥派

同盟市戦争

スパルタクスの反乱