13世紀の日本 鎌倉時代 素朴で質素の武家社会

源頼朝

 13世紀は、鎌倉時代である。
 当時の鎌倉幕府の役割は、武士の土地トラブルの訴訟の解決が大きかった。影響力も関東地方周辺に限定されていて、西国は京都の影響力が強く。東北地方は、奥州藤原氏独自の政権を築いていた。源頼朝東北の奥州藤原氏を滅亡させ、関東東北など東日本全体に影響力を及ぼした。

執権政治

 鎌倉幕府は最初世襲されていた。源氏の血統が途絶えると、京都の後鳥羽上皇は鎌倉武士のNo2 であった北条家に追討令を出したが、多くの武士が北条方についたため、これを返り討ちにした。(承久の乱)。この事件により、京都の天皇や貴族(公家)の権力は大きく衰退し、武士の政治力が高まった。一方で、権力基盤のない北条家は、これまでの慣習を法令にしてそれに基づいて政治を行った。(御成敗式目

元寇と北条時宗

 また、世界史では13世紀はモンゴルの時代と言われている。モンゴルは日本にも攻めてきたが、これを鎌倉武士は撃退した。

13世紀の日本文化(鎌倉文化)

 文化面では、鎌倉新仏教が成立した。11世紀から始まった末法思想が12世紀の戦乱によって武士や庶民まで浸透してきた。武家の世界では曹洞宗などの禅宗が流行った。座禅などは禅宗の宗教の考え方による。仏教は庶民にも広まり、念仏をとなえる浄土宗や日蓮宗などもこの時代に始まった。また、当時の文化は京都であったが、平安時代から続く派手な貴族文化のほか、武士や庶民に浸透した文化が台頭し始めたのもこのころである。また、禅宗の影響で平安時代のようなきらびやかな文化から質素で素朴な文化が流行り始めた。

13世紀の経済

 12世紀の宋(中国)のように、農業技術が進歩し、お茶などの商品作物(米以外の販売用作物)の生産が普及した。また、12世紀の日宋貿易による中国製の銅銭の流入や商品作物の登場で商業活動が活性化した。このころ日本刀を作る技術を応用して鉄製農具が作られ始めた。