7世紀の朝鮮半島 新羅王朝の三国統一

渤海の建国

 中国東北部(満州)には、ツングース系民族(靺鞨族)とモンゴル系民族(契丹族)が生活していた。モンゴル系民族は唐王朝とツングース系民族は高句麗と結びついた。

 高句麗が滅亡すると、ツングース系民族は高句麗の後継国として渤海を建国した。

vs唐王朝

 唐王朝は、高句麗と百済を滅ぼすと、旧高句麗と旧百済に都護府を置き、朝鮮半島全域を唐王朝の支配下にしようとした。追う王朝は新羅王朝へ服従を求めた。これに新羅王朝は反発。

 新羅は、唐王朝と戦うことになった。75年、新羅は、唐王朝軍を朝鮮半島から追い出すことに成功した。

 新羅は、唐王朝と戦う道を歩んだため、旧高句麗や旧百済の王族貴族を優遇した。旧来の新羅の貴族と区別するために導入されたのが骨品制である。新羅の人々と他の地域の人々とに格差をつけるため、実力主義ではなく、家柄で階級を決める制度となった。

 また、新羅王朝は日本との関係改善にも務めた。幸いなことに72年の壬申の乱で天智天皇から天武天皇へ政権移行したタイミングであった。天武天皇は、自らの権威付けのために新羅の使いを快く迎えた。

vs高句麗

 68年、新羅王朝は、唐王朝(中国)とともに、内紛中の高句麗を滅ぼした。

 高句麗は、朝鮮半島北部のツングース系の国である。隋王朝や唐王朝の攻撃を何度も撃退した強国であった。

vs日本(白村江の戦い)

 百済の人々は、同盟国である日本へ亡命した。斉明天皇の後を継いだ天智天皇(中大兄皇子)は、63年に亡命してきた百済の人々とともに朝鮮半島へ出兵した。

 日本は、この戦いで大敗。多くの人々が唐へ連行された。日本は、都を内陸部の近江(滋賀県)へ移し、遣唐使の派遣を積極的に行った。また、防衛のために北九州に防人(さきもり)を置いた。防人は徴兵で行われ、農民に対する重い負担の一つとなった。

vs百済

 60年、唐王朝と結んだ新羅王朝は、まず、百済王朝を滅ぼした。

 百済王朝は、朝鮮半島南西部の国である。中国の南朝や日本との交流も盛んであった。

 この時、日本も百済に援軍を送る予定であったがタイミング悪く斉明天皇がなくなったため、援軍はすぐに撤退した。

唐王朝との同盟

 新羅王朝は、同盟先として3つの選択肢があった。高句麗と日本、そして唐王朝である。

 7世紀前半、唐王朝と日本は百済との親交があった。49年、唐王朝で三代国王高宗が即位すると、新羅王朝は、唐王朝の高宗と同盟を締結した。

隋王朝の高句麗遠征失敗

 581年に建国した隋王朝は、周辺諸国に朝貢を求めた。日本も6世紀初頭に小野妹子を遣隋使として派遣している。朝鮮半島の高句麗、百済、新羅にもこれを要請。百済と新羅はこれに応じた。しかし、高句麗はこれに従わなかった。

 二代皇帝煬帝(ようだい)は、この報復として高句麗遠征を繰り返した。しかし、高句麗はこれを撃退した。

 高句麗遠征の失敗で、隋王朝は衰退。隋王朝から唐王朝へ変わった。

 唐王朝の第二代皇帝太宗は、百済の要請を受けて、高句麗遠征を行ったがこれも失敗した。このときに味方につけたのがモンゴル系の契丹族であった。

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