8世紀の朝鮮半島 新羅王朝と仏教

8世紀の東アジア

 8世紀、中国は唐王朝の時代である。8世紀初頭は、則天武后の時代である。その後、玄宗皇帝が即位し、安定した政治が行われていた。しかし、晩年、楊貴妃が後宮に入ると国が乱れ始めた。

 8世紀半ばには、イスラム教徒侵攻を受ける。(タラス河畔の戦い)。さらに、その直後に宰相の座をめぐり安史の乱が発生。都の長安は焦土と化した。これにより、唐王朝の近隣諸国への影響力が低下した。

 一方、8世紀の日本は、奈良時代に相当する。藤原氏と皇族、仏教勢力が熾烈な権力闘争を展開していた。一方で、遣唐使を派遣し、国際交流も盛んであった。

新羅王朝全盛期

8世紀の朝鮮半島

 8世紀の朝鮮半島は、新羅王朝の時代である。新羅王朝あ、7世紀に朝鮮半島を統一。しかし、唐王朝の滅亡とともに10世紀初頭に滅亡した。

都 慶州

 新羅に都は、それまでの朝鮮王朝の都からかなり離れた慶州(キョンジュ)にある。朝鮮半島南東部で、日本にかなり近いところに都をおいていた。

 慶州は、現在も古都として有名で、釜山から30分ほどで行ける。日本でいう、奈良や京都のようなん存在の都市である。世界遺産が点在していることから屋根のない博物館と呼ばれている。

仏国寺

 慶州は、ソウルと違い王宮よりも仏教施設の方が有名である。その代表例が仏国寺と石窟庵である。この2つのの仏教施設は世界遺産として登録されている。仏国寺は、6世紀に建設され、8世紀に今の形になった。石造建築の部分は現在も健在であるが、木造部分については、16世紀後半の豊臣秀吉の侵攻時に焼失した。石窟庵は、にほんでいう奈良の大仏に相当する仏教遺跡である。8世紀に作られた石仏が安置されている。

 8世紀の新羅王朝は、奈良時代の日本と同様に仏教を重んじていた。そのため、ソウルとは異なり、慶州には、ぶっきょ施設が多数存在する。

骨品制

 新羅王朝時代は、科挙がまだ導入されれていなかった。この時代は、骨品性という階級制度が用いられた。曹操の九品中正(3世紀の中国)や聖徳太子の官位十二階(7世紀の日本)のように実力は反映されず、身分のみで階級が判断された。上位の階級は王族が独占していた。

 では、新羅王朝(朝鮮)は、日本や中国のように実力主義が採用できなかったのであろうか。それは、新羅が征服王朝であったからである。そのため、江戸時代の親藩、譜代、外様のように豪族を分ける必要があった。そのため、そのため、統一前の新羅王朝時代からの王族貴族には高い階級をあたえ、征服地の高句麗や百済の王族や貴族には、低い階級を与えた。

渤海(ぼっかい)

 7世紀末、朝鮮半島の北に狩猟系民族ツングース族の渤海が建国された。渤海は、唐王朝(則天武后)に使いを送り冊封国となった。高句麗の後継国の立場をとり、律令制を採用。唐王朝の長安に倣った都を作った。日本(奈良)にも使いを送っていた。

 10世紀初頭に、唐王朝の支配下にあったモンゴル系契丹族が遼を建国すると、渤海は遼王朝の支配下に入った。