高麗王朝とは
高麗王朝とは10世紀に建国した朝鮮半島の王朝である。13世紀にはモンゴル帝国の属国となり、14世紀に朝鮮王朝へ禅譲し幕を閉じた。
内政 科挙と両班
高麗王朝では、科挙が採用されていた。しかし、朝鮮王朝時代と異なり、蔭位の制も併用されていた。科挙とは、東アジア圏で広く採用された官僚採用ための筆記試験のことである。おもに儒教を中心にしていたため、これらの地域では儒教が重視されるようになった。一方で、蔭位の制は、高級官僚の子弟は科挙を免除された。
高麗で科挙に合格できるのは、裕福な少数の家柄に限られた。かれは、やがて両班(やんばん)と呼ばれるようになった。
科挙は、官僚用の文科、軍人用の武科、技術者用の雑科の3種類があった。政治の中枢に入ったのは文科に合格した官僚たちであった。
外交 宋王朝と契丹
11世紀は、宋王朝の時代である。10世紀後半には、中華の再統一を実現していた。一方で文治主義を採用し、平和外交を展開していた。
一方、高麗の北にある女真族のエリアは、モンゴル系の契丹族の遼王朝が支配していた。
宋王朝と遼王朝は04年に澶淵の盟(せんえんのめい)を締結。兄としての宋王朝が弟である遼王朝を経済援助する代わりに遼王朝が宋王朝への侵攻を行わないことになった。
11世紀初頭、高麗王朝は遼王朝へ朝貢を行っていた。しかし、09年に高麗王朝で政変が起こり、遼王朝への朝貢を取りやめると、遼王朝は、高麗王朝(朝鮮半島)へ侵攻した。その後、14年には宋王朝への朝貢を再開。遼王朝と高麗王朝への侵攻は20年まで続き、高麗王朝が遼王朝へ朝貢を再開することを約束すると、この戦争は終結する。
文化 仏教の保護
高麗王朝では、高麗版大蔵経が作られた。木版印刷による経典である。宋王朝(中国)では10世紀後半には作られていた。高麗王朝では11世紀に完成した。高麗版大蔵経は、13世紀のモンゴルの侵攻の際に焼失したが、すぐに再刊された。
それ以外にも、金属活字や高麗青磁などの技術はこの時期に成立した。