14世紀の朝鮮半島 朝鮮の建国

朝鮮の建国

明王朝の成立

 68年、紅巾の乱の最中、中国南部の南京で明王朝が成立した。高麗は、親元王朝派と親明王朝派に分かれた。主流派は親元王朝派であった。

李成桂

 李成桂は、高麗王朝の官僚であった。前期倭寇の取り締まりで人望を集めていた。李成桂自身は親明王朝派であった。

 88年、元王朝の援軍として明王朝へ向った。明王朝へ向う途中に川があった。ちょうど増水期にあたり、この川で多くの兵士を失った。兵士を失った李成桂は、出兵を取りやめ、開城へ戻った。

 李成桂は、開城に戻ると軍事クーデターを起こし、親元王朝派の官僚を追放し、新しい王を即位させた。

高麗国王からの譲位

 92年、李成桂は高麗王から禅譲を受けて、国王に即位した。李成桂は、明王朝に使いを送り、国王としての信任を得た。この時、明王朝から新しい国名も決定してもらった。それが「朝鮮」である。また、都を開城(ケソン)から、京城(ソウル)へ遷都した。ここからソウルの歴史が始まる。

王子の乱

 李成桂の死後、後継者争いで内乱状態になった。これを治めたのが3代国王太宗であった。太宗は1403年、明王朝皇帝の永楽帝に冊封。朝鮮国王として正式に認められた。

 太宗は、18年に世宗に位を譲り、上王として院政を敷いた。15世紀前半の世宗大王の全盛期に入る。

前期倭寇

倭寇とは

 倭寇とは、東シナ海沿岸の海賊たちのことを指す。13世紀から14世紀にかけての前期倭寇と15世紀から16世紀の後期倭寇に分かれる。

 倭寇は、略奪行為よりは密貿易が主的な活動であった。時の政府に対抗していくために武装化していった。

南北朝の動乱と紅巾の乱

 では、13世紀後半から倭寇の活動が活発化していったのだろうか。倭寇は、13世紀半ばの九州(日本)で始まった。13世紀半ば、鎌倉幕府(日本)は元寇を撃退した。しかし、鎌倉幕府は十分な恩賞を与えることができなかった。多くの武士は元寇の戦費を回収できず、貧困に苦しんだ。その中には、先祖代々の土地を売却して倭寇になるものが多かった。

 14世紀に入ると、鎌倉幕府は滅亡。南北朝の戦乱期に入った。南北朝の戦乱は長期化し、九州の倭寇を取り締まりを行うことができなかった。

 一方、中国大陸では、元王朝が紙幣の乱発でインフレが起きていた。そのため、闇市場で日本製品が高価で売れた。14世紀に入ると、ハイドゥの乱で元王朝はすいた。14世紀半ばには、紅巾の乱が発生。元王朝には倭寇を取り締まりを行う余裕がなくなっていた。

 しかし、倭寇は15世紀に入ると急速に沈静化した。永楽帝が冊封システムを構築したためである。永楽帝が冊封制度を構築。明王朝が貿易を独占するようになった。

李成桂

 倭寇と朝鮮建国は密接にかかわっている。朝鮮初代国王である李成桂は、高麗時代に中小貴族(両班)であった。李成桂は、倭寇退治で名をあげ、中央政界へ進出した。

高麗

高麗とは

 高麗とは、10世紀に成立した朝鮮王朝である。名前は、かつてあった高句麗に由来している。都は、ソウルの北、現在の北朝鮮南部の開城(ケソン)においた。

 高麗は、KORIA(コリア)の語源ともなった。

元王朝の属国

 13世紀半ばに元王朝に服従。元王朝へ朝貢を行っている。13世紀末には元王朝軍として日本へ2度侵攻。いずれも失敗に終わり、大きく財政が悪化した。